短歌時評

固有の場所を歌う / 澤村 斉美

2009年7月号

  〈小郡〉が〈新山口〉になりしごと知らぬ間にわれら新世界にゐん

 大松達知第三歌集『アスタリスク』(六花書林、六月刊)より。そうであった。山陽新幹線の小郡駅はいつのまにか「新山口駅」という名前になっていた。改めて調べてみれば、駅名は二〇〇三年に改称されて「のぞみ」が停車するようになり、二〇〇五年にはこの駅のある小郡町が山口市と合併し、消滅している。そんなふうに、当たり前だったはずのことがいつの間にか、しかも意図的に変えられていることの奇妙さ、それに気がつかない「われら」。「新世界にゐん」ととぼけた口調で、「われら」のいる状況の不思議さを冷静に見ている歌だ。「新世界」でも何事もないような顔で生きている不感症の「われら」の姿がこわい。大松はこのように、日常にまぎれこむ言葉への違和感から社会批判の窓を開く。

 不感症の「われら」が現在に生きる人々の姿の一面であるのに対して、谷村はるかの第一歌集『ドームの骨の隙間の空に』(青磁社、三月刊)は、それでいいのか、と鋭く問いかける。仕事で日本の各地に住んできた谷村は、その土地土地で出会った人、味、自分が知らないところで町が積み重ねてきた時間などを含めて、積極的に町を歌う。中でも、広島への思いは深い。

  八月以外の十一か月の広島にしずかな声の雨は降りくる
  すれ違い行き交っている東京の被爆者八千人のひとりと

 二修目にあるように、自分が広島の歴史の当事者ではなくすれ違っている中の一人なのだという自覚がある。その上で一首目のように、世間で語られる紋切り型ではない本当の広島の姿を見つめようとする。広島の歌のほかにも、谷村は固有の場所を頻繁に歌う。

  中之島を二本の川が閉じ合わす何も見なくていいと抱くように
  タワレコでPOPを読んで時は過ぎるああこんなにも人間は言葉

 「中之島」は大阪市中心部の堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲だ。下句の比喩が美しい。谷村にかかれば地形すら愛される。二首目は大型CDショップ「タワーレコード」でポップ(商品を勧める文の書かれたもの)を読むという場面。下句は、「タワレコ」という固有の性格を持つ場所(CDを物色してついつい無為に過ごしてしまう場所)だからこそ生きる。つれづれの時間にも言葉を求めてしまう人の性に気がついた歌として読んだ。

 小林幸子の第六歌集『場所の記憶』(砂子屋書房、〇八年十二月刊)もまた、固有の場所を歌う。生地や、歌の師・前登志夫の暮らした吉野などが歌われているが、中でもナチスの強制収容所を訪ねる歌群に迫力がある。すでに多くのことが語られている場所から、どんな言葉を新たに汲むことができるのか。

  所長ヘスが家族と住みしよき家がポプラ並木の向こうに見ゆる
  人体を杭のかたちにひしひしと詰めたる立牢 たつたまま死ぬ

 アウシュビッツ収容所での歌だ。風景をつぶさに描く歌、収容所が行ったことを想像力で描き起こす歌、これらはナチスという事柄にではなく、たはり場所から見つけ出された言葉に力がある。

 すでに知っているその場所を、私たちは本当に知っているか。情報の伝達によって作られた安易なイメージに頼っていないか。固有の場所に向き合って歌う谷村の歌、また小林の歌は、場所を物語る言葉を新たに見いだそうとしている。と同時に、自分から感じとりにいかない疲れ切った歌に対する鋭い批判とも見えた。私は非常に痛かった。

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