八角堂便り

夕映と金魚 / 山下 泉

2022年7月号

 森岡貞香の歌集『未知』(1956年)を読んでいて次のような歌に立ち止まった。
  夕映をせぬ窗を見ておどろきぬ硝子くししそのき跡の
  われの名をよばはりをれば立ちゆくと一隅がく月さすところ

 夕映をしない窓には、ガラスが失われたままぽっかりと眼窩のように暗い空白がむき出しになっているのだろう。いつも美しい夕焼けを見慣れていた窓なのに、というくらいの思いが「おどろき」とまで表現されていることのほうに驚く。
 母に声高に呼ばれているので立って行こうとすると、「一隅が空く」。いま自分が占めていた位置が空白になり、そこには月の光が射していたのだと発見する。
 この二つの歌に共通する空白の発見に、異様な鮮やかさを感じるのは何故だろうと考えるうちに、第一歌集『白蛾』(1953年)の中の次のような作品を思い出した。
  きみ死にしは夢でよかりしと言ひきそれもまた夢なりしうつつとは何
  いくさ畢り月の夜にふと還り來し夫を思へばまぼろしのごとし

 軍人の夫が一旦は無事に復員し間もなく急逝したという悲痛な事実がこれらの歌の背後にはある。花山多佳子は著書『森岡貞香の秀歌』において、一首目の結句「うつつとは何」に「根源的な問いとしてのひびき」を指摘し、森岡の戦後はこの切実な問いかけから始まったとする。この問いは『未知』の前掲二首の、空白の発見の異様な鮮やかさと密接な関係にないだろうか。花山さんは「急逝に際して誰もがもつ思い」として「『昨日と今日』の間の推移での同じ場所、空間の感覚」は「森岡がずっと拘るモティーフとなった」と考察する。森岡貞香は、あるものが不在となる時と場所に意識の触手を伸ばし、継起する時間と空間における存在の在り様を繰り返し追求したのだと思う。
 ところで、歌集『未知』には、このように異様に鮮明な作のいっぽうで、存在の不明感を前景化させた作品も目立つ。
  わが肩に重くくもりの垂れてきてふとあふのけの金魚をりたり
 「曇日」と題された一連五首中のこの歌に「金魚」は唐突に現れる。一塊の雲が主体の肩に垂れてくる奇妙な圧迫感は、「ふと」に誘導されるように仰向けになった金魚の虚像のようなものを炙り出す。
 河野裕子は評論集『体あたり現代短歌』(1991年)の中で、この歌の曖昧さや不分明感の由来を「自分自身でさえ捉えようのない内面に、あえて明確な輪郭を与えて表現しようとしないところにある。」と分析している。のちに裕子さんの「金魚」の作品に出会った時、その新しい文体の中で、ふと仰向けになるように金魚の主客が転倒するのを感じて驚愕した。
  お嬢さんの金魚よねと水槽のうへから言へりええと言つて泳ぐ
                             『歩く』(2001年)

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