短歌時評

わからなさのなかに / 浅野 大輝

2022年7月号

 平井弘の第三歌集『振りまはした花のやうに』が文庫版として短歌研究社より刊行された。昨年第四歌集『遣らず』が同じく短歌研究社から刊行されたが、それ以前の歌集は――第一歌集・第二歌集は『平井弘歌集』(国文社、一九七九年)などで読めるものの――入手しにくい状況が続いていた。遅れて興味を持った時評子にとっては、その存在を知りつつも手に取れなかった歌集の筆頭であり、文庫版としての刊行は素直に喜ばしい。
  はづかしいから振りまはした花のやうに言ひにくいことなんだけど
  さういへば見かけませんね公園にながれてゐるのは他人のじかん

 第二歌集『前線』と比較して明らかなのはリズムの変質である。語割れや句跨がりとして一般的な短歌定型のうちで認識しやすかった『前線』までよりも、第三歌集にはリズムの独特な歌が増えている。たとえば前掲一首目は「はづかしい/から振りまはし/た花のや/うに言ひにくい/ことなんだけど」と捉えれば確かに定型の三十一音なのだが、「振りまはし/た」は「振りまはした」と、「や/うに」は「やうに」と、それぞれ一息で続けてしまいたい感じも否めない。時評子と近い韻律感覚の人にとっては、という但書付きでだが――逆にいえば、こうしたリズム面での居心地の悪さとでもいう部分が、読者それぞれに「他人のじかん」を感じさせる仕掛けとなっているとも言えるかもしれない。
 また「平井弘の短歌には触れることができない」(安田直彦「幽霊と生傷」、「ザオリク」vol.3所収)と指摘されるように、読解に確かな輪郭を与えることが難しいというのも平井作品の特徴である。その傾向は第三歌集以降特に強まっているようにも思う。時評子はそこにも居心地の悪さを感じるのだが――。
 しかし、ここまで時評子が述べた「居心地の悪さ」とはいったいなにものだろう。思うにそれは、短歌の韻律はかくあってほしいとか、あるいは歌の意味内容はある程度一義的に把握できてほしいとか、そうした読む側のコンフォート・ゾーンを外れてくれるなよという勝手な願いの投げかけではないか。
  (…)〈他者〉などはじめから短歌の発想には存在しなくて、そこには〈対者〉
  だけがあるのではないか。受け容れるにしろ、対立するにしろ、疎外されるにし
  ろ、それは〈他者〉としての性格をいちぢるしく欠いていて、ただ〈対者〉であ
  るにすぎない。他人のつもりで歌っているのが、じつは、少しも他人など捉えて
  いない、という事態からは、なにかひじょうな欠陥が予見できるのである。
                      平井弘「他者をめぐる試論的展望」
 制作から読解までのプロセスは、①作者と世界の対峙、②作者と作品の対峙、③作中における主体と客体との対峙、④作品と読者の対峙など異なるレベルでの対峙が絡み合って進行する。引用中の平井の指摘は主として①②③といった制作のプロセスに関するものである。しかし平井作品が(時評子のような)読者に突きつけるものには、④において短歌的なるもの・・・・・・・を笠に〈他者〉を疎外し、自身の安全圏に留まろうとする読者の姿までも含まれているように時評子には思われる。
  午後三時をまはつたところで影がたちどまるつてしつてましたか
 たとえば「午後三時」に「影がたちどまる」とは何なのか、この少しずつずれたリズムは何なのか――それらはおそらく「わからない」という答えになるのだが、しかし平井作品の教えてくれることは、そのわからなさをわからないままに受け取るということが、最も適切な理解の仕方なのかもしれないということだ。自身に快適な空間に招き入れるのでなく、わからなさのなかにむかうことこそ〈他者〉と出会うための方法なのではないか。

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