青蟬通信

茂吉の遺骨を見た日 / 吉川 宏志

2022年7月号

 五月十五日の朝、私は、十メートルほど移動した斎藤茂吉の墓石の前に立っていた。山形県上山市の宝泉寺。
 斎藤茂吉短歌文学賞の授賞式が開催される日であった。岡野弘彦氏が受賞されたのだが、私は記念講演をすることになり、茂吉の埋骨式に参加できたのである。
 おや、茂吉の遺骨は墓に収められていなかったのか?と疑問に思う人が居るかもしれない。茂吉の次男である作家の北杜夫氏が、葬式のとき遺骨の数片を持ち帰ったのだそうである。北氏はその骨を、ずっと書斎の仏壇に、ウイスキーの木箱に入れて保存しておられたらしい。自分が執筆するとき、尊敬する父に見守ってもらいたい思いがあったのではないだろうか。
 しかし北氏も二〇一一年に亡くなった。それで、北氏所蔵の遺骨を、宝泉寺の墓にあらためて埋葬することになったのである。
 大きな墓石が動かされ、土にぽっかりと穴が開いていた。あまり近づくことはできないが、骨壺らしきものの上部が白く見えている。やがてその前に台が置かれ、紫色の布を敷いた折敷おしきが運ばれてきた。その上に六個の小さな骨が載せられている。それぞれに形は違うが、一つは遠目にも尖っていて硬そうだった。朝から曇っていたけれど、昼前になると五月のまぶしい陽が射してきて、骨が白く照り映えた。
 黒い蜂が境内をいくつも飛び回っていて、しばしば遺骨の上を横切ってゆく。「遺骨の撮影はご遠慮ください」というアナウンスが何度か流れた。今は脳裏にある骨の白さを思い出すしかない。
 読経が進み、斎藤茂一氏(茂吉の長男・茂太の息子)夫妻が骨の一つを持ち、墓の中の壺に入れる。次に斎藤喜美子さん(北杜夫氏の奥様)、斎藤由香さん(北氏の長女)の二人が、別の骨を手に取り墓へと向かう。歌人からは雁部貞夫氏(新アララギ)、秋葉四郎氏(歩道)が納骨をされた。一人一人、白い手袋をして骨を持つのである。その後、全員で焼香をした。
 一九五三年に亡くなった茂吉の遺骨を見るというのは、ありえないような出来事であろう。偶然とはいえ、その場面に立ち会えたことに、茂吉から呼ばれたような嬉しさを感じたのであった。
 茂吉の最後の歌集『つきかげ』を読むと、若き日の北杜夫の姿を詠んだ印象的な歌を、いくつか見つけることができる。
  豪雨ふる山の家にて炭火ふくわが口もとを次男見てゐる
  孫太郎むしの成虫を捕へ来て一日ひとひ見て居りわれと次男と

 会話は多くないけれど、老い衰えた父の姿を、じっと見守っている息子の様子が伝わってくる。北杜夫氏は『どくとるマンボウ昆虫記』という著作もあるとおり、昆虫マニアである。「孫太郎虫の成虫」とはヘビトンボという首の長い不気味な虫であるが、虫に詳しい息子に教えられつつ眺めている茂吉の顔が目に浮かぶ。
 私は北杜夫氏の作品も、中学生の頃からよく読んでいた。『さびしい乞食』という童話の「前書き」だったはずだが――今、手元に本がない――、師走のある日、北氏は幼い娘と二人でデパートに買い物に行った。あまりお金がなかったころで、さびれた食堂に入るしかなかった。ところがその店で、娘はカニサラダが食べたいと言い出す。奮発して注文すると、カニの身がちょっとだけ載ったみすぼらしいサラダが出てきた。それを見たときのみじめな思いが、ユーモアに包まれつつ書かれていて、なぜか心に残っていた。
 私も娘が生まれてから、ちょっと似た経験をしたことがある。だからなおさら記憶に刻まれたのかもしれない。
 斎藤由香さんにご挨拶したとき、「あのカニサラダのかたですか」とつい質問してしまった。斎藤由香さんは、嬉しそうに「そう、カニサラダの娘です。ときどき訊かれることがありますよ」とおっしゃられた。
 中学生時代に読んでいた本が、こんなところにつながってくるとは。小説の伏線の意味がずっと後になって分かったときのような、不思議な感動が押し寄せてきた。

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