短歌時評

大きな悲しみのまえで / 浅野 大輝

2022年6月号

 「短歌研究」二〇二二年五月号の特集は「三〇〇歌人新作作品集」。テーマを「リ・スタート」と設定し、歌人三〇〇人による新作七首と、一部歌人によるエッセイを掲載。不透明な社会情勢のさなかにあることは、各作者・作品にも確実に影響を及ぼしている。
  ロシアでも戦地でもなきこの国に三連休の春がはじまる
                            石井和子「卒寿の春」
  「独裁」は彼には汚名でないのかと空き地に暗い三月の過ぐ
                             江戸雪「咲かせる」
  見られなかつた桜のことと見たことのないウクライナ 同じ重さで
                            田中槐「春になる雨」
  ウクライナ反戦を言ふくらゐなら何も言ふなと暗がりのこゑ
                            寺井龍哉「年度末迄」
 昨年に比べて目立つのは、やはりロシアによるウクライナ侵攻を題材に扱った作品の存在であろう。「ウクライナ」「侵攻」「独裁」「戦争」といった直接的な単語で今回の侵攻に言及した短歌を有する連作を提出しているのは――あくまでも時評子の主観が混ざった大雑把な算出だが――三〇〇人中八〇名以上になる。特集に参加している作者のうち四分の一を超える作者が言及しているわけであり、多くの人が侵攻について衝撃を受け心を痛めているということが伝わってくる。
 歌いぶりは様々であるが、先に挙げた四作品に見られるような、「戦争」という大きすぎる悲しみと自身の生活・作歌とのあいだの距離に対する批判を含んだ作品が、時評子にとっては特に印象深い。戦死者数が日毎増えていく事態にありながらも「三連休の春」は始まり、「ウクライナ」は「見られなかつた桜」と同じくらいの重さに感じられる。「独裁」という語彙は非難の意味をなさないようで、どのような言葉で現状に向かうとしても「何も言ふな」という声がつきまとい、それは自身の内から聞こえるようでさえある。
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 大きな悲しみを前にして、歌はどうあることができるのか。何を伝え、何を共有できるのか。『いま、社会詠は』(青磁社、二〇〇七年)や『時代の危機と向き合う短歌』(青磁社、二〇一六年)、震災詠にまつわる議論など、こういう場面で改めて参照したい文献は多くあるが、今回最初に思い浮かんだのは「現代短歌」二〇二〇年七月号での穂村弘のインタビュー「〈近代短歌〉は終わらない」だった。このインタビューにおいて穂村は、笹井宏之の作品における「魂の等価性」を指摘しながら次のように話す。
  (…)〈われ〉を中心とした同心円のように距離に比例して心が薄れてゆく。そ
  れは当たり前だろう、という感覚が普通だったと思う。でも、それでは飢餓も戦
  争もなくならない。他の生物はどんどんママ滅びてゆく。その当たり前を無条件に
  受け容れていいのか、という問いかけが笹井さんの歌には流れている。
 この現況に対して笹井宏之のように歌おうなどと主張するつもりはない。ただ、近代以降広く短歌に浸透した〈われ〉が、そもそも他者を理解して共存していこうとする場面において限界を有しているという指摘は重要であろう。〈われ〉の同心円に従った価値判断ではなく、同心円を逃れた等価な価値判断に、遠くの他者に心を向けて感情を共有していくためのヒントがあるのではないか。
 エリック・ブノワは「灰のうた」(『トラウマと喪を語る文学』所収)において「喪の共有不可能な性質が、全人類に共通、、している」と指摘する。たとえ相手が遠く、また多様で、経験や感情が共有不可能に思えたとしても、なお共有不可能という性質が共通のものとして残される。それはどこか希望に似ている。

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