青蟬通信

強制される自由意志 / 吉川 宏志

2022年6月号

 今年の塔新人賞の選考座談会で〈強制される自由意志〉について少しだけ話している。永山凌平の受賞作「虫と炎」の次のような歌が印象に残ったからである。
  この仕事やりたいよねと訊かるればやりたくなりて赤べこになる
  終はつたら「良い経験」にさせられる炎上案件 今燃えてゐる

 一首目の「赤べこ」は会津地方の郷土玩具で、赤い牛がゆらゆらと首を振るもの。そのイメージを思い浮かべると、「やりたくなりて」とあるが、実際は気が乗らない状態だったのではないか。「この仕事やりたいよね」は一見優しい言い方だが、拒否できない圧力があるように思われる。
 二首目も、苦情の処理という非常に大変な仕事を命じられ、「これをうまく対応したら、君にとって良い経験になるよ」というふうに説得された経験を詠んでいるのだろう。私も似たような言葉を会社で聞かされたことがあった。もし断ったら、「良い経験」を積んでいないことになり、組織の中で評価されないことにつながるのである。
 形式的には自由に選択できることになっているが、実際は強制に近い、ということが、現代社会でしばしば見られる。もちろん昔から存在していたが、今はその手法が非常に洗練され、巧みになっているのが特徴と言えよう。丁寧な言葉の背後に有無を言わさぬ権力があり、無気味なものが生じてくるのだ。
 昨年流行した韓国ドラマの『イカゲーム』もこのテーマを扱っていて、生き残れば大金をもらえるという危険な死のゲームに参加させられる人々の姿を描いているのだが、主催者はつねに「ゲームに参加するかどうかはあなたの自由です」と強調する。参加者の多数決でゲームを中止できるルールもあり、投票する様子も描かれていた。しかし多額な借金を抱えている人ばかりで、実際には選択の余地はないのである。
 スラヴォイ・ジジェクという、ちょっといかがわしいけれど非常におもしろい思想家がいるのだが、ブレヒトの戯曲『イエスマン』について論じているのを読んだことがある。
 『イエスマン』は、金春禅竹の「谷行たにこう」という能を翻案したもので、昔は険しい山を越えるとき、途中で病気になった者は、集団に迷惑をかけないために、谷に落とされることに同意しなければならない――イエスと答えねばならない――風習があったことを題材としている。
 ジジェクはこう述べている。
「社会に属している人間はすべて、強制されたものを自由意志で選択して受け入れなければならないという、逆説的な立場に立たされることがある。(略)実際にはそんなものはないのに自由な選択があるかのようなふりをする」
                       (『ラカンはこう読め!』2008)
 つまり、強制される側も、自由な意志であるように、演じている面もあるのではないか、というのがジジェクの指摘なのである。自分で決めたことなのだ、と納得することでしか乗り越えられない生の苦しみも、確かに存在する。ジジェクの論はとても印象的だったのであるが、その後、前登志夫の『樹下集』(1987)を読んでいたら、
  うべなひはさびしかりけり山行きてブレヒトの劇「イエスマン」思ふ
という一首に逢着して驚かされたことがあった。前登志夫も、兄が戦死したために、山深い吉野の旧家を継いで生きねばならなかった人で、自分も強制された人生に「イエス」を言いつつ暮らしているのだという思いがあったのかもしれない。
 〈強制される自由意志〉は、今後の短歌において重要なキーワードになっていく予感がする。歌集を読むとき、その点に注目するのも興味深い試みになるのではないだろうか。
  なんにでも、頑張りますってコーラしか売らぬ自販機みたいにきみは
                          toron*『イマジナシオン』
  無傷って言うときひとつめの傷ができる気がする 僕は無傷です
                        田村穂隆『うみとファルセット』

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