八角堂便り

亡き子の歌 / 前田 康子

2022年5月号

 わが子を亡くした歌は挽歌の中でも特に悲しい。毎月の塔やこれまでの短歌史の中にもその歌は多くある。
 八十四歳の土屋文明が長男夏実を五十一歳で亡くしたのは、昭和四十九年六月のことである。直接の死因は癌であったが、夏実は幼いころから病弱で青年時代には結核にもかかっていた。そういった境涯を乗り越え、厚生技官となり最後の職場は京都市衛生研究所であったという。
  暑き京都に働きつづけアフリカに旅行く秋を待つと告げ來ぬ
  年久しく願ひしウガンダの研究所に行くを喜び出立ち行きぬ
 文明の妻、土屋テル子の『槐の花』より、昭和四十四年夏実を詠んだ歌。「夏になれば蚊を調ぶるに忙しく暑き京都を離るる日もなく」という歌もあるので、ウガンダへは感染症などの研究のための旅行であったと思われる。
  わが子亡き家に目ざめぬ白き花にかこまるる寫眞夢の如しも
  死は意外に靜かなるものとその妻に言ひのこしたり醫として生きて
 同歌集、「長男夏實逝く」より。一首目、受け入れがたい死と、幸せの場所そのものであった京都の家の変わり果てた様子がある。二首目はその哀しみが少しすくわれるような一首。自らに来る死を冷静に受け止めた夏実の言葉は辛いが、遺されたものにひとつのしるべを示している。
  たらはなほろほろと山陰やまかげ臭木虫くさぎむしさがすよわ がため
                            『ふゆくさ』
  はなみてときたまるにあまゆるいだきてやればねむりにけり
 文明が幼い頃の夏実を詠んだ歌。一首目は疳の虫に効くとされていた虫を探す場面。二首目は妻子を置いて東京で暮らす文明が夏実に会いに行った時の歌。
  わけなしに恐れしことも忘れがたし日に日に弱き汝が生ひ先を
                              『青南後集』
  幼くして一生の体質定まると思はざるにもあらざりしもの
 文明の夏実への挽歌は夏実が亡くなった翌年に足利へ訪れることにより詠まれている。足利はまだ二歳に満たない夏実と乳飲み子のかや子を妻にあずけ暮らさせていた場所である。自分は単身上京、法政大学の予科講師をしていた。病気がちの夏実を心配しつつ離れて暮らさざるを得なかった時代を思い、自分を責める口調だ。
  何のためといふこともなき一日の青あらしの中ただ汝を思ふ(『同』)
 足利の一連の最後の一首に強い虚しさのようなものを感じる。ただ追悼の意のみでこの地に来て終わるのではない、自分の命が尽きるまでただ子を弔うしかない苦しい長い時間を感じているのではないか。夏実の死後の十六年後、一〇〇歳で文明はこの世を去る。

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