言葉によって見える風景 / 吉川 宏志
2022年5月号
自分が今まで見聞きしたことがあるのに、歌になるとは思わなかったものが作品になっているのを見て、非常に驚かされることがある。
陽だるまのバスが街なかに入りきてやうやく車体の青とり戻す
志垣澄幸『鳥語降る』
真夏の日光はとても強く、車体が白く反射するので、本来の色が見えないときがある。でも市街地に入ってくると、ビルの影などがあるから、バスの青い色が見えるようになる。誰でも似たような経験はあるのではないか。
しかし、それを言葉で表現しようとはなかなか思いつかない。この歌を読むことで、今まで無意識に見ていたものが、初めて〈見える〉ようになる。「青とり戻す」という結句に独自のまなざしがある。
卓上のペットボトルがだしぬけに骨折のやうな音をたてたり
これはさらに分かりやすい歌。こんなボコッという音を、確かに聞いたことがある気がする。ユニークな比喩で表現されることにより、はっきりと記憶の中から浮かび上がってくるのだ。〈聴けども聞こえず〉という言葉があるが、短歌として表現されることで、初めて聞こえてくる音がある。
山わたりゆく送電線をあふぎつつそのとてつもない重さを推は測かる
郊外で鉄塔の列を見ることがある。ただ、似たような風景を見ていても、送電線の重さまでは普通考えない。工事現場で巨大な糸巻きのようなものに電線が巻かれているのを見たことがあるが、すごい重量なのだろう。「重さ」という言葉でそれに気づかされるために、写真のように見ていた風景から、強い手ざわりが生じてくるのである。
このように、人間は言葉によって外界をこまやかに認識している。正岡子規は、
「美しき花もその名を知らずして文にも書きがたきはいと口惜し。甘くもあらぬ駄菓子の類にも名物めきたる名のつきたらむは味のまさる心地こそすれ。」(『墨汁一滴』)
と、百二十年ほど前に書き記している。現在でも、有名な産地の食品だと書かれていると、何となくおいしく感じられたりする。味覚さえも、言葉によって大きな影響を受けているのである。
ところが私たちは、常識的な言葉に包まれて物事を見ていることが多い。たとえば、朝方に月が見えていると、「残月」「有明の月」といった言葉で捉えてしまう。言葉によって、見方の枠が決められてしまうのだ。
しかし志垣は次のように歌う。
月ひとつ終ひ忘れしあけぐれの空とよもして一番電車過ぐ
神のような存在が、月を片付けるのを忘れた、というふうに描いている。「あけぐれの空」は夜が明けてもまだ暗い空という意味。その空に警笛などを響かせて、一番電車が走り出すのである。
同じような風景は誰でも見たことがあるだろう。ありふれた風景と言ってもいい。だが、言葉を通常とは変化させることで、私たちが見馴れているものとは別の空間が創り出されるのである。
蛇口より出づる光のきらめきに児は手を入れて揉みはじめたり
校庭などで、子どもが水で手を洗っている場面。だがこの歌では、〈水〉や〈洗う〉という語を使わずに表現している。そのことによって、普通に見ているときよりも鮮やかな印象で、風景が現前してくる。〈水で洗う〉という言葉を知る以前の世界が、この歌によって一瞬よみがえるのではないか。
幼い子どもは、単語を知らないので、ときどき思いがけず、非常に新鮮な表現を生み出すことがある。詩歌とは、それを知的に、意識的に行うことで、新しい世界を開いていく営為であると言っていい。
志垣澄幸は今年八八歳になる。言葉を通常とは変えるという、ある意味ではシンプルな方法をずっと貫くことにより、みずみずしい発想の歌を生み出し続けていることに、私は感銘を受けるのである。『鳥語降る』が今年の詩歌文学館賞を受賞したことを、とても嬉しく思っている。