鬼のことなど / 山下 洋
2022年4月号
スーパーに買物に行くと、いつもの肉・魚のコーナーの一角に何種類もの巻寿司が並んでいる。そうか、今日は節分なのだと気がついた。鬼のお面の飾りがそこここに貼られている。恵方巻って最近だよなあ、バレンタインチョコより新しいんじゃないか、などと思いつつ眺める。
実はあんまり鬼はきらいではない。というか、むしろ好きなのかも知れない。子どもの頃、『桃太郎』を読んでもらっていて、「鬼さん、かわいそう」と言ったそうだ。何年かのちに買ってもらった浜田廣介『泣いた赤鬼』に、その思いはいよいよ強くなった。
節分と聞いて、まず思い起こす一首、
鬼やらひの声内にするこの家の翳りに月を避けて抱きあふ
小野茂樹『羊雲離散』
「鬼は外」の声。まるで追ってくるかのように。暗がりに抱き合う、ぞくぞくするような状況。まさに、追われている鬼こそ自分なのではないか。そんな気にさせられるのである。
節分以外の、鬼にまつわる歌や句も見てみよう。
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
寺山修司『田園に死す』
きっと、ずっと遊んでいたかったのだ。解かれることを望んでいなかったのだ。だから、誰もいなくなっても、こんなに年を取っても、鬼をつづけているんじゃないか、と思える。なんだか鏡を見ているような。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
三橋鷹女『魚の鰭』
「登ったならば」と仮定なので、登ってはいないのだ。決断できなかったから、鬼になれなかったのだ。どうしようもない憧れのようなものが、「鬼」に託されているのを感じる。
友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
高柳重信『山川蟬夫句集』
片腕だけは鬼になったのだが、その他の、身体の大半の部分はもとのまま。この句の「鬼」にも憧れの匂いがある。現実との間で引き裂かれている姿なのか。全き変身への願望も読み取れるかも。
鬼は好きかも、と書いたが、そうじゃない鬼もいる。『伊勢物語』第六段、「芥川」に出てくる人喰い鬼だ。この鬼は、どうしても好きになれない。
立春を詠んだ歌がある。鬼に喰われた犠牲者のモデル、とも言われているひとの作である。
雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ
二條后『古今和歌集』
あれから幾年を経たのだろう。雪は降っているけど、春が来ているよ、と歌う。こころに響く歌だ。作者の胸の奥の、凍りついていたものも、溶けはじめていたのだろうか。そう信じたい。