青蟬通信

予言する歌―平井弘『遣らず』 / 吉川 宏志

2022年4月号

 昨年に出た平井弘の歌集『遣らず』を最近読み直し、初めて読んだときとずいぶん印象が変わっていて、奇妙な気分になった。
  さうかこの軍服がみえてゐないのか王さまはうれしくなりました
  あつたうてきなものを前にしたら見ててごらん鴉はさわがない

 平井の歌は口語で破調が多く、不思議なリズムを生み出している。一首目は童話の「裸の王様」のパロディで、好戦的な政治家を皮肉っている。「さうかこの」から始まるところにも意外性がある。
 二首目は何か気になる歌で、「あつたうてきな」という旧仮名表記に、異様な雰囲気がある。「見ててごらん」が途中で割り込むように入って来る(挿入句とも呼ばれる)のもおもしろい。だが、どう解釈すればいいかよく分からない歌でもあった。
 しかし、ロシアのウクライナ侵攻が起きた後では、すんなり納得できてしまう。一首目はプーチンのように見えるし、二首目はロシアの核兵器のように感じられるのだ。
 わざと曖昧に表現し、何かをほのめかすのが、平井弘の方法であった。その不吉な言葉に、現実のほうが引き寄せられてゆく。
  どの本棚からだつてほんたうのところアンネのへやへはひれます
 もちろん『アンネの日記』を踏まえている。アンネは本棚から隠し部屋に逃げ込んだが、それはどこででも起こり得るのだと語っている。ウクライナにも隠れている少女はいるに違いない。
 普通の社会詠は、事件が起きてから後追い的に作られる。しかし平井の歌は、事件を後から当てはめるように読むことになる。そんな読み方が正しいかどうか分からないが、不気味な読後感が生じてくる。
 なぜ平井の予言的な歌は当たってしまうのか。それは、人間が普遍的にもつ闇に触れているからだろう。
  おほすぎるとだれも摘まないつくし数つてさういふことだつたんだ
 戦争や災害の死者、あるいはコロナの感染者もそうだが、数が多すぎると感覚が麻痺してしまう。そんな人間のどうしようもない部分を、「つくし」という童画のようなイメージに重ねて暗示的に歌っている。
 平井は一九三六年生まれで、子どものころに太平洋戦争を体験した。そのときの感覚のままで、戦争の怖ろしさや愚かしさを、ずっと歌ってきたのだ。大人になっても、賢そうな言葉で政治や社会を語るのはすごく恥ずかしいという意識がある。大人だって、一皮むけば、幼稚で何も分かっていないのだ。そんな醒めた認識を持っている。
  刷込みつてたしかはじめに見たものをへいわと思つてしまふこと
 「刷り込み」とは、ほんとうは、鳥の雛が卵から生まれたときに初めて見たものを親だと思ってしまう現象である。そのように、平和という概念も、自分が生まれた国や経験によって、大きく変わるのじゃないか、と平井は疑っている。日本とロシア、またアメリカでも、「へいわ」の意味は全く異なるだろう。
 平井の歌は、明確に言い切らないので朦朧としている。
  危ないほうを摑むつてひとまづは蛇の話でよろしいですね
などは、不穏な印象はあるが、どう読めばいいのか迷う。必ずしも成功しているとは言えないだろう。
 だが、絶対的な正しさなど存在しないという思想を、不明瞭な文体を極めることで、平井は生涯をかけて貫いてきた。それに全面的に賛同するわけではないけれども、その徹底性に、私は圧倒されるのである。
  まだあひこのままザリガニのはさみが用水に食べのこされてゐる
  囲つたからなくなるほかなかつた白いひと形のうちがはのひと

 『遣らず』には、消えてしまったものの存在感をとらえた歌も多い(二首目は、交通事故の後の白い線だろう)。在るよりも無いほうが、なまなましい印象を与えるのだ、という真実を教えられる。

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