青蟬通信

「読みの時代」と「作者の時代」 / 吉川 宏志

2022年3月号

 何年もしてから、あのときはこういうことを言っていたのだなあと気づかされる文章がある。
 河野裕子の『体あたり現代短歌』に、「読みの時代」という時評が収録されている。一九八八年に「現代短歌 雁」という雑誌に掲載されたのを、リアルタイムで読んだ記憶がある。
 現代短歌評論賞を受賞した加藤孝男の論文について書かれている。当時二十代後半だった加藤が、岡井隆の歌を「こまかく丁寧に読みといていく読みの力」に、河野は驚く。しかし、選考委員の菱川善夫が、次のように発言したことに注目している。
「僕は作品の読みは少しくらいいい加減でも構わない。(中略)自分の立てた論理に何かひっかかるという形で、豪快にまず論を立てられることの方が、評論家としては僕は大事な点じゃないかなと思う。今どちらかというと読みの時代ですね」
 これに対して河野は、
「私自身は、(中略)歌の読みを踏まえた上での論でなければ、短歌の評論ではないと考えているが、菱川の苛立ちや不満もまた理解できる。(中略)菱川が最も活躍した(昭和)三十年代は、レトリックよりも、読みよりも、歌いたいこと、表現したいこと、声をあげたい状況が、まずあった。(中略)今はどうか。思想より、変革より、論理より先に、修辞に、ことばの面白味に、ことばの遊びに眼が行く。世界を変革する可能性が乏しい時代には、世界を読みとく方向に赴かざるをえないのである。」
と述べるのである。
 河野さんが「世界を変革する可能性が乏しい時代」と言っているのにもちょっとびっくりする。今では、こんな観念的で硬い言葉を使うことは、ほとんどなくなってしまった。当時は、激しい政治の時代の余熱が、いくらか残っていたのかもしれない。
 私は歌を始めたばかりの頃で、「読みの時代」の意味がよく理解できなかった。歌を丁寧に読むのは当たり前だろうと思っていた。ただ、菱川や河野の言う「読みの時代」が、三十年以上も続いていることに、今ふりかえってみて愕然とするのである。
 つまり、歌いたいことや訴えたいテーマが先にあるのではなく、修辞や文体などの表現の面白さを楽しむ風潮は、ずっと変わっていないのだ(貧困や女性差別などの現代的なテーマを歌った歌集も出ているが、大まかな流れとして、「ことばの面白味に、ことばの遊びに眼が行く」方向であったことは否定できないだろう)。河野の時評の先見性を感じる。
 さらに言えば、現在は、読み自体を楽しむ時代になっているのかもしれない。歌会などで、誰が最も面白い歌の読み方をするかを競う時代。他の人が思いつかないような、新しい評を考えることに、スリリングな興味を見いだしている印象を受けるのである。そのため、多様な読みが生じるような、多義的な歌が高く評価される。解釈がすぐ一つに決まるような、単純明快な歌は、あまり好まれない傾向があるのだ。
 悩ましいところである。私も基本的には、歌の読みが重要だと考えており、『読みと他者』という評論集も出している。ただ、歌いたいこと、表現したいことが第一である、という、いわば「作者の時代」があったことも忘れてはならないと思うのである。歌の読みはもちろん大切だが、「読みの時代」というパラダイムを疑う視点もまた必要だ、というのが、とりあえずの結論になろうか。
 永田和宏『置行堀』に、
  虚構論議も歌壇も大事 しかしいまもう少し怖いところにゐるやうな気がする
という歌があったが、これも同じような文脈の中で捉えることができるだろう。社会に対するストレートな批判や思想が、作者から失われてもいいのか、という疑念があるのだ。
 河野の時評は、次のように結ばれている。
「変革の容易でない時代は、一方では重層的で高度複雑な歌と読みの成熟をもたらすものであることを思った。それは、ゆるやかな退廃と同時進行しているものであろうけれども。」
 今、すごく身に沁みる言葉である。「ゆるやかな退廃」が進んでいるのではないか、という問いは重い。

ページトップへ