短歌時評

すぐそこにあるendgame / 浅野 大輝 

2022年3月号

 二〇二一年一二月から二〇二二年一月にかけて、OSS――オープン・ソース・ソフトウェア。ソースコードが公開され、使用や改良、再配布などを許容するソフトウェア――に関連する興味深い二つの出来事があった。一つは Apache Log4j 2 という全世界で広く利用されているログ出力ライブラリに深刻な脆弱性が発見されたのに、当初その修正に当たることができた開発者がわずか数名しかいなかったという事象。もう一つは、毎週数百万回以上のダウンロード数のあった人気ライブラリ faker.js と colors.js が、(作者の生活難や、ライブラリを利用している企業からの支援がないことへの嫌悪感から行われたものと推測されるが)突如作者により“endgame”を告げられ、正常利用ができなくなる更新を施された事象である。これらは社会で広く活用されているソフトウェアが乏しい支援のなかで働く少数の開発者に支えられている事実を改めて突きつけるものであり、Googleなどがそうした課題への支援を表明している。
 参加者個々人による無償ないし少ない報酬での場への貢献、という視点で短歌にまつわる事象を思うと、「塔」二〇二二年一月号の吉川宏志による年頭所感「『共有地』という意識」には考えさせられる部分が多い。
  私はこれ(註:内田樹『コモンの再生』)を読んで、「塔」という雑誌はまさに
  「共有地」なのだと思いました。「みんなが、いつでも、いつまでも使えるよう
  に」、(…)ボランティア作業に多くの方が参加しています。そのため、安定し
  た発行ができているのです(…)。
 資本主義的な発想から距離をとり、無償の貢献をベースに場を維持する吉川の考え方は、「2006 年、結社とは何か」から継続している。こうした結社観には共感を覚えるし、可能な範囲で貢献していきたいと思う。
 一方、短歌に関する場を見渡せば、ボランティア精神など参加者の意識による場の運用は結社に限られるものではない。例えば総合誌からの依頼は(時評子個人の観測範囲では)金銭報酬としては一回あたり通常数千円程度であり、金銭のみで考えるなら多くの場合には対応に必要な労力・時間との釣り合いがとりにくい。短歌に関連して何か仕事を行う際には、報酬についてそもそも頓着していないケースや、非金銭報酬――自己の制作物を広めたい、自己の能力や評判を高めたい、短歌というジャンルや場に貢献したい、純粋に楽しみである、などの無形の報酬――をモチベーションとするケースが多いのではないか。趣味の範囲となる部分もあり同一視は難しいが、こうしたあり方は有償ボランティアなどのあり方とも多少重なって見えてくる。
 無報酬や非金銭報酬を主とした運用であること自体は問題ないし、そこに資本主義的ではない〈コモン〉としての可能性を見出すこともできよう。しかしこの場合、その運用を場/参加者の両方が自覚し、それが成り立つ仕組みづくりや継続的なケアを行うことが重要である。特に「ボランティア」などの言葉や非金銭報酬のもとに参加者のみが自覚を要求される状況は避けたい。個人の自覚/対応だけでなく、場としての自覚/対応もなければ、その場はおそらく持続可能ではない。
 〈歌壇〉という場を考えるとき、時にそれを支えているのが参加者個々人の自覚のみなのではないかという疑念が拭えない。その感覚がある程度正しいなら、そうした個々人の自覚のみに支えられる場は非常に危ういと言わざるを得ない。個々人の自覚の消失が、場に“endgame”を突きつける――そうなったとき対応できる力が〈歌壇〉に本当にあるか。内外問わず様々なコミュニティの取り組みを参考にしながら、場としての自覚と、場/参加者のケアを仕組みとして整備することが、今後さらに求められるのではないか。

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