八角堂便り

歌の小火 / 三井 修

2022年3月号

 昨年出た林和清歌集『朱雀の聲』の中にこんな作品があって、とても印象に残った。
  助詞を足し助動詞を引き語順替へやむなく歌の小火ぼや消してしまふ
 上句はカルチャースクールなどで講師をしている人の多くが実感することであろう。初心者の多くが安易に助詞を省略してしまう。勿論、省略して差支えない助詞もあるが、省略したために場合によっては意味が通じなくなったり、時には誤読される場合も少なくない。一方で、必要のない助動詞を多用する人が多い。助動詞にはそれぞれ意味や用法があることをあまり意識しないで、何となく使っているのである。私が特に気になるのは過去の助動詞「き」の連体形の「し」が現在の叙述に使われていることである。それは多分、過去の変化の結果が現在まで継続しているという感覚からであろうが、その場合は原則として完了の助動詞「たる」となるであろうし、助動詞を使わないで表現して差し支えないことが多い。この「し」と「たる」の問題は以前から時々話題になっているようで、「し」と「たる」をもじった「四斗樽」というタイトルの評論もあったが、最近はあまり問題にはなっていないようだ。
 それはともかくとして、教室で「なぜここでこの助動詞を使ったのですか?」と質問すると「かっこいいと思ったからです」などという回答が返ってきたりしてがっかりする。講師としては必要な助詞を足し、不必要な助動詞を削除する。その結果短歌のリズムが乱れてしまう場合は、語順を替えてリズムを整える。概ねそんな添削が多い。林作品の上句はそんなことを言っているのではないだろうかと思う。
 さて、問題は下句であるが、林の本意はともかくとして、私は次のように解釈する。本当はこの歌は凄い歌なのではないだろうか。短歌の常識を焼き尽くすような可能性を秘めている作品なのではないだろうか。自分にはそれが理解できなくて、ただ、意味が通じるように直し、リズムを整えて、結果としては常識的な作品にしてしまっているのではないだろうか。この作品が短歌の大火に発展する前の「小火」の段階で未熟でお節介な消防士の自分は消火してしまっているのではないだろうか。私はカルチャー教室で常にそのような恐れを抱きながら添削をしている。
 カルチャー教室での添削だけではない。結社の選歌でもそのような意識はある。自分に理解できないからといって、短歌の常識を焼き尽くす可能性を秘めた作品を落としてはいないだろうか。塔新人賞の選考の時は特にそのような意識がある。
 ある意味でそれは激しい葛藤でもある。林作品の中の「やむなく」という一語が私にはとても身に沁みる。

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