青蟬通信

『人類の午後』を読む / 吉川 宏志

2022年2月号

 俳句の読解については全く自信がないのだが、堀田季何さんの『人類の午後』という句集がとてもおもしろかった。堀田さんは『惑亂』という歌集を持つ歌人でもある。
  戰爭と戰爭の閒の朧かな
  懇ろにウラン運び來寶船

などがよく紹介されている。戦争が終わり、次の戦争が始まるまでの、幻のような平和を、「おぼろ」という春の季語で捉え、鮮明な印象を残す句だ。
 「寶船たからぶね」は新年の季語で、海の向こうから富を運んで来るもの。ウランもたしかに、一部の人々には莫大な富をもたらす。しかし、原発事故で大きな被害を生じさせたことを忘れることはできない。「懇ろに」がユニークな言葉遣いで、警備しつつ大事に運んでいる様子をシニカルに描いているのだろう。「寶船」というめでたいものが、非常にまがまがしい存在に見えてくる。
 季語という長い歴史を持つ言葉を、現在の危機意識によって、新しい色に塗り変える、と言えばいいのだろうか。その方法がじつに効果的に用いられていると感じたのである。
  とりあへず踏む何の繪かわからねど
 「絵踏み」は春の季語なのだそうである。江戸時代にキリシタンを発見するために踏絵を踏ませる行事を、春に行っていたためだという。これも季語を現在の状況として捉えている句で、何の絵なのか理解していないのに踏みつける、という行為は、さまざまなことを連想させる。
 たとえば、沖縄の米軍基地に反対する人々が、ネットで激しい攻撃を受けたりする。実際のことを何も知らないのに、あるいは知ろうとせず、大勢の人々が易々と言葉の暴力に加担することがしばしば起きているのだ。「とりあへず」という言葉に、軽々しく他者を踏みつける人々への絶望が込められている気がする。
  霧のなか霧にならねば息できず
 句集には「一九四一年一二月七日、〈夜と霧〉發令。(後略)」という前書きが置かれている。ヒットラーが、ナチスに抵抗する人々を、夜霧のように秘かに連行して消すことを命じたのを背景とする句である。
 そのような悪が蔓延している状況では、自分も悪にならなければ生き延びられないことを、象徴的に表現しているのだろう。内心ではナチスを嫌悪していても、反対者の殺害に協力してしまった人々が数多く存在したのである。
 ただ、ナチスの時代だけではなく、現在でも似たようなことは起こり得る。組織が腐敗すると、自分も不正に手を染めないと、生きていけなくなってしまう。政府の中で起きた文書改竄は、おそらくそうした経緯で生じたのだろう。「霧にならねば息できず」という表現は、身に迫る怖さを持っている。
 こうした作品は、短歌ではなかなか難しいように思われる。短歌では「とりあへず踏む」や「霧にならねば息できず」という表現を生かすために、自分がどのようにその状況と関わっているかを歌うことが重要になるからである(もちろん、必ずしもそのように歌わねばならないわけではないけれど。一般的な傾向と考えてください)。自分(我)を主体として歌うように働く力が、短歌の〈私性〉と言ってもいい。
 しかし俳句では季語がもっと大きな存在感を持っていて、「霧」という言葉が、一九四一年のドイツでも現在の日本でも変わらぬ、スケールの大きな視線を作り出すのである。
  初富士に死化粧して巨き手は
 雪をかぶっている富士山を、死に化粧と見立てている。噴火の危機も思い出させ、「初富士」というめでたいものが不気味に反転させられる。「巨き手」は神の手だろうか。ここにも、小さな自己を超えた存在が描き出されている。そのような大きなものから人間が見られているように表現するのが俳句であり、あくまでも人間の立場に立って、大きな存在を表現しようとするのが短歌なのかもしれない。
  月かげはそも日のかげぞわが泳ぐ
  夭折の作家に息子萬年青の實

など、社会的なテーマから離れた作にも心に残る句が多かった。

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