短歌時評

距離の外/「他者」のグラデーション / 浅野 大輝

2022年2月号

  icinessが雨か霙に訳されるまで無機質に瞼を鎖して
                          帷子つらね「贋作」
  (…)目的地は地図上に固定された名詞にはなく、かけがえのない他者たちとパ
  ーソナル・スペースを編み合わせあうことでしか生まれません。
                     帷子つらね「パーソナル・スペース」
 引用は「歌壇」二〇二二年一月号より。本号では新春企画として一一名の歌人による作品とエッセイを掲載。エッセイのテーマは「今年でかけたいところ」。新型コロナウイルス感染症と隣り合わせの生活が続くなか、その収束への願いが企画にも表れている。
 帷子作品の一首、翻訳行為において零れ落ちてしまう感性と、世界に対する自身の疎外感とを重ね合わせた表現に惹かれる。またエッセイの「かけがえのない他者たち」と「パーソナル・スペースを編み合わせあう」という表現には考えさせられる部分が多い。
 わたしたちが普段「他者」と思っているのは、パーソナルスペースやその先の社会距離・公共距離を共有する存在についてであろう。さらにその「他者」には自身に対する〈かけがえのなさ〉などのグラデーションがついている。その状況下では〈わたし〉が何らかのレベルで許容した存在のみを「他者」として、それ以外をそもそも「他者」として認識できていないという事態も発生しうる。
 「他者」のグラデーションは実生活上必要不可欠なもので侵されるべきでなく、存在して当然である。一方、そのような「他者」のグラデーションは、特に表現や批評に関する場面で作者/読者の認識に作用すると、そこに在りながらも見つけられることのない「他者」を生み出す可能性を有している。自身の見える範囲にない/あるのに見えていない「他者」が増えることで、気がつかないうちに思考の幅を狭めることになりはしないか。
 〈押しボタン式だとわかるまでの時間なにかの花が満開だった〉(丸山るい)とい
 う歌を複数人で鑑賞したときに、わたしがいちばん美しいと感じた評は「(この歌
 の作中主体は)働いている感じがする」というつぶやきだった。
                       平岡直子「パーソナルスペース」
 「歌壇」同号の特集「気鋭歌人に問う、短歌の活路」より。引用した平岡の文章は永井祐作品についての読解をベースに短歌の読解を考えるもの。ここで平岡は、本来であれば作品のどこにも書かれていない「働いている感じがする」という評が有効に作用する理由を、作品に最初からそうした「設定の『なか』に置く」読解の可能性が埋め込まれていたからなのではないかと婉曲的に指摘する。
 こうした評の有効性もまた、パーソナルスペースを共有しあえるような、親しい存在とのみ共有可能な文脈を前提として担保されるものにも思える。伝わる者同士では伝わるが、伝わらない者には全く伝わらない。ある意味自身が認識しない「他者」を疎外するものと思えなくもないが、確かにこうした評でその〈場〉の共通認識を得る場面は存在する。そしてこうした読解の方法を、短歌/歌人は少なからず是としてきたのではないか。
  ルピナスのはゆらめけり友人が親友と呼ぶひとを知らない
                          川野芽生「ルピナスの焰」
  したくてもできないひともいるんだよいるだろう太い風打ち付ける
                           竹中優子「いるだろう」
 共に「短歌」二〇二一年一二月号より。「友人」には〈わたし〉が知らないような「親友」がいるし、語られて初めてその存在に気がつける「他者」もいる。自身の見えないところでも「他者」と世界を分け合っていることは、いつもほんの少しでも覚えていたい。特に表現/批評の場面において、それは重要なことであるように思われるのである。

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