八角堂便り

鴎外の三男 / 栗木 京子

2021年12月号

 森鴎外には五人の子がある。長男の於菟は最初の妻との間の子で医学者になった。二番目の妻との間には四人の子がある。長女の茉莉、次男の不律(夭折)、次女の杏奴、三男の類。小説家、随筆家として活躍した姉たちに比べて末っ子の類のことはあまり知られていない。その彼に光を当てた朝井まかての小説『類』が昨年刊行され、印象深く読んだ。
 鴎外が亡くなったのは類が十一歳のとき。泣き虫の末っ子を「ボンチコ」と呼んで、とりわけ可愛がっていた父であった。その後は母や姉たちの強烈な個性に守られ、時には圧迫されながら、類は成長する。画家を志して、姉の杏奴とともに二十歳でパリに遊学。このとき尽力してくれたのが与謝野寛、晶子夫妻であった。杏奴は才能を開花させ、のちに画家の小堀四郎と結ばれる。しかし類は絵の制作に打ち込むことができない。やがて家庭を持った彼は、父の印税だけで生活してゆくのは難しいと判断し、書店を営むことにした。鴎外の旧居・観潮楼の跡地に文京区が記念館を建設する計画が持ち上がり、森家は敷地を区に譲渡した。このとき手許に四十坪ほどを残し、そこに店と自宅を建てたのである。
 開業は昭和二十六年の一月。店の名は「千朶(せんだ)書房」という。命名に際して斎藤茂吉に相談したところ「鴎外書店」と「千朶書房」の二つが提案された。父の号を店名にするのはさすがにためらわれ、類は「千朶書房」を選んだ。鴎外はかつて住まいを「千朶山房」と称したことがある。もちろん千駄木町という地名に由来している。「朶」は垂れ下がった枝のことで、花や雲を数える語でもある。満開の桜を「万朶の桜」と言うが「千朶書房」からも上品な華やぎが伝わる。さすが茂吉の命名である。開店の案内状は佐藤春夫が筆を執ってくれた。こうして書店を営みながら類は小説などを発表することもあったが、あまり評価は得られなかったようである。
 ところで、千朶書房開業の少し前、亡き母の遺品を整理していた類は、箪笥にしまわれていた半紙の和綴じ本を発見する。これこそ鴎外が第十二師団軍医部長として福岡県小倉に赴任していた折の日記であった。長らく行方が不明になっていた日記。日本文学史上の宝と言っても過言ではない。日記が世に公開されてしばらく後の昭和二十七年、松本清張は「三田文學」九月号に短編小説『或る「小倉日記」伝』を発表した。森家の箪笥から小倉日記が発見されたことに着想を得た一篇である。そして、翌年に第二十八回芥川賞を受賞した。
 『或る「小倉日記」伝』は清張作品の最高傑作だと私は思っている。鴎外の子であり小倉日記の発見者である類には、ついにこの小説は書けなかった。そのことがしみじみと切なく、心に沁みる。

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