短歌時評

運用と手順㉒ / 吉田 恭大

2021年11月号

 みなさまいかがお過ごしですか。緊急事態宣言が終わり、毎日の通勤電車の車内もあっというまに元の混雑になってしまいました。
 
 第二回塚本邦雄賞が発表された。受賞歌集は高木佳子『玄牝』、永井祐『広い世界と2や8や7』の二冊。「短歌研究」9月号掲載の穂村弘による選評、特に永井歌集について言及した部分の前段から引用する。
  短歌の世界に身を置いて作品を読み続けていると普段はあまり意識しないのだ
 が、何かの拍子に外部の目で自らの生息域を見直す機会があると、歌人たちはあ
 まりにも魅力や能力がかぶっているんじゃないか、と感じることがある。同じゾ
 ーンに精度高く投げることに意識が集中している、とでも云えばいいだろうか。
 (中略)表裏一体の現象として、自分が良しと信じるゾーンから外れた歌に対す
 る違和感や抵抗感の強さがある。(中略)他ジャンルでもそういう主張はないこ
 とはないだろう。でも、短歌の場合は反応が強く起きやすい。定型詩が差異に敏
 感になるのは当然だが、それが異質性の排除という方向に現れやすいのは何故だ
 ろう。(後略)
 この後、穂村は永井作品を賞に推した理由として、「この作者の歌には、それまで誰も投げようと思わなかったところに一人で球を投げ続けるような面白さがある。」と述べている。
 穂村の使った野球の比喩を多少乱暴に纏めるならば、短歌の世界≒歌壇、における狭い秀歌のストライクゾーンがあり、永井の歌はその外側、これまで攻められていなかったコースに投げ込まれている、という言い方をすることができるだろうか。
 (大抵のものは野球に例えるとすぐに本質を見失うので注意が必要なのだけれど、ここではもう少しこの比喩を続ける)
 同じゾーンに精度高く投げ込まれ続ける球、秀歌性、と呼ばれるようなある種の短歌の良さ、が集団の内部に共有されるものだとして、そのゾーンを外れた歌は集団になにをもたらすか。長期的なスパンで見れば、それはストライクゾーンの拡張であると言えるだろうか。また、一首限りで考えたとしても、きわどい球で読者にバットを振らせてしまえば、その歌はストライクをとることができる。
 (野球の比喩をさらにもう一段階拡張する)
 秀歌のストライクゾーンはこれまでの秀歌の蓄積によって何となく決まっていて、比喩ではない野球と同じく、その領域は時代によって若干変化しています。
 さらに、ピッチャーとバッター、作者と読者の関係性に限った話で言うと、この一首がストライクかどうか判断するのはあくまで読者の側である。ピッチャーにとっては、当てられたら/振られたらその球はストライクと言えるだろう。(この辺から、筆者の野球に対する理解に限界が来た。ので、この話はここで切り上げる。)
 集団の秀歌性と個人にとっての秀歌性があって、集団の秀歌性、については当然母集団によって秀歌性は変化するし、集団の中の個人においても、秀歌性は人それぞれのトピックとなる。
 比喩を切り上げたら至極当然の話になってしまった。この、穂村の「ゾーンに投げる」たとえ話について個人的にいいなと思ったのは、グラデーションとして、相対的な短歌観の違いを言い表すことができると思ったからだ。
 文語/口語、世代、性別、その他何なりと、作者や作品を二分化するための要素は、やろうと思えば無限に作り出すことができる。価値観を二分し、そこで切断を起こせば構図は理解しやすいだろう。しかし、そこで安易に断絶を見出さず、中心と周縁の図像を重ね合わせ、照らし合わせていくことの重要性を考える。勿論、投げ込みは続けた方がいい。

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