百葉箱

百葉箱2021年9月号 / 吉川 宏志

2021年9月号

  椿の花落ちゐる庭に埋めやりぬ眼を閉ぢることなきメジロを
                             田口朝子

 眼を閉じずに死んだメジロに哀感がある。「まなこ」とも読めるが、私は字足らずで読んだ。
 
  遮断機が上がれば向こうとこちらとで人は世界を取りかえている
                               三浦こうこ

 日常の風景だが、下の句の意表を衝かれる表現で、SF的な不思議さが生じている。
 
  帰るとは峠を越えることだつた栗子峠のふぢいろの風
                          山尾春美

 今は新しい道路ができたのだろう。地名が美しい。
 
  雲間より夕日さし来て「上腕を出しやすい服」のわれらを照らす
                               渡辺のぞみ

 ワクチン接種の歌。みな、指定された服を着ていることに気づき、奇妙な連帯感を持った。
 
  牛ですがアロサウルスの大きさを伝えるためにここに居ります
                              相原かろ

 恐竜の大きさを示すために、よく使われる図。牛が語っている文体なのがおもしろい。
 
  だれからも邪魔をされぬ日タピオカの粒になりきり街をぶらつく
                               近藤真啓

 集団に紛れ無個性になる様子を、意外な比喩で描いた。
 
  脆き骨と気づきて火力弱めしと告げたるひとの柔きまなざし
                             中村英俊

 火葬場での思いがけない優しさ。亡くなった人の弱っていた身体にも、気づかされたのだ。
 
  「かしらみぎ」なさずに済みし一生なり雨の外苑の年に生れて
                              西川 修

 昭和十八年の学徒出陣を詠む。自分は戦争に征くことがなかった幸運を噛みしめている。
 
  ホルモンを呑み込む時が分からないと五十年言いつづける妻
                             田邊昭信
  真ん中の髪を立てたる青年は傘を高めに持ち上げ歩く
                          白澤真史

 田邊昭信・白澤真史作品、どちらも日常の細かなところに注目し、独自のユーモアを生み出している。
 
  独り寝のみどりご思へば乳房張り母乳零れき田植の最なか
                            鈴木美代子

 赤ん坊を家に置き、田植えをしていた頃の回想だが、下の句がなまなましく臨場感がある。
 
  してよ、また大水青が飲みものと思ってたって話のつづき
                            toron*

 大水青は水色の蛾の名前。発想、文体ともにユニーク。
  
  ムギムギと車の窓にかほつけし幼な二人の麦の秋ゆく
                         戸田明美

 麦畑を見て喜ぶ幼子の様子を見つつ、「麦の秋」という時間の美しさを改めて感じている。
 
  日に三度レの字で埋める来館者エリア消毒点検表を
                         大井亜希

 博物館で働く人のコロナの歌。名詞が多いリズムから、余裕のない現場の感覚が伝わる。
 
  絵本持ちいっしょいっしょと子がさわぐ訃報に小さな青虫映れば
                               吉田 典

 『はらぺこあおむし』のエリック・カール。まだ死の意味が分からない幼子の反応を寂しむ。
 
  イヤホンで世界を遮断し歩みだすティッシュ配りのティッシュの先へ
                                 徳田浩実

 「ティッシュ」の繰り返しが効いていて、一人一人に分割された都市風景が見えてくる。
 
  肌包むアジアの服と肌さらす西洋の服けふはアジアだ
                          山下好美

 この二分法が本当に正しいか分からないが、結句に勢いがあり、思わず納得してしまう。
 
  高すぎる体温でした触れたとき手首にいたよね君の心臓
                           ひろうたあいこ

 手首に心臓がある、という表現のみずみずしさに惹かれる。会話体が伸びやかな歌。
 
  田の隅は手にて植ゑけむ苗の列少し乱れて畔に沿ひたり
                           木立英行

 細やかな写実の眼が行き届いた、端正な一首である。

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