八角堂便り

廊下のうた / 梶原さい子

2021年9月号

  廊下より自分のベッドがみゆるなり我の姿のなくて真白な
                            冬道麻子『梅花藻』
 冬道さんの歌集を読んでいたら、この歌に出逢った。筋ジストロフィーという病を得ていつも横たわっているベッドを、今日は廊下から見ている。通院などの外出の前後、それとも、掃除などのために、場所を移したときだろうか。永い間寝たきりの状態なので、そこに自分がいないことが不思議で信じられない、そんな心が、結句の言いさしに表れている。
 あるいは、この歌は、ベッドの上から想像したものとも読める。不確かな自分の存在。廊下から見たとき、本当に自分の姿はあるのだろうか、という。
 ここでベッド(のある部屋)と廊下は、対置するものとして捉えられている。メインはベッドだが、そことは異なる、別の見方ができる位置として廊下はある。
 廊下というのは不思議な場所で、あくまでも補助的なものなのに、存在感のある舞台となるときもある。忠臣蔵で有名な松の廊下は、全長五〇メートルもあったと言うし、桐壺更衣が糞尿を撒かれるいじめを受けたのも渡り廊下であるし、
  戦争が廊下の奥に立つてゐた
               渡邊白泉『渡邊白泉全句集』
 この句などは、立っている場所が廊下で無くては成り立たない。なぜなら、廊下は道でもあるから。引き返せる状況にはないとき、道ならば、歩いて行けば必ず、「戦争」というものに出遭うことになる。
 学校や病院の廊下が妙に怖いのも、進みゆく自分に対して、何かがやって来そうな場所だからだ。この世と異界とをつなぐ役割も廊下にはある。
  ま夜更けて病院の廊下てかてかとてかてかと光りいて誰も通らぬ病院の廊下
                          加藤克巳『夕やまざくら』
 「誰も通らぬ」と言いつつ、何かが通りそうな気配にあふれている。
  病棟の廊下にひとすじさすひかりたぶんなれてはいけないところ
                           小川佳世子『ゆきふる』
 安らぎや神々しさを感じることを戒める。病廊は異界に通じているのだから。
 一方、こちらの歌では廊下は、
  廊下ごしに深夜きこゆる次女のこゑ台詞せりふよむときわがではなく
                         吉野昌夫『あはくすぎゆく』
 二つの世界を隔てるものである。境界なのだ。「わが」はすでに変質している。
 短歌・俳句等では、「廊下」の持つ要素が象徴的に発揮されることが少なくない。
 最後に、印象的な「廊下」の歌を二首。
  エレベーターひらく即ち足もとにしづかに光る廊下来てをり
                             高野公彦『淡青』
  ねむいねむい廊下がねむい風がねむい ねむいねむいと肺がつぶやく
                             永田和宏『饗庭』

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