短歌時評

運用と手順⑳ / 吉田 恭大

2021年9月号

 みなさまいかがお過ごしですか。
 
 「短歌研究」5月号は「三〇〇歌人新作作品集」、三〇〇人近くの存命歌人の新作を一覧できるという特別号で、創刊以来初の二刷、三刷となった。いわば保存版として、普段短歌総合誌を定期的に購入しない層へアプローチすることが出来たのでは無いだろうか。「女性・男性という性別で括らない、年齢順ではなく五十音順で、約三〇〇人の歌人の新作作品とエッセイを一気に掲載します。」と編集後記にあるが、これまで「女流歌人特集」であったり「如月・相聞に寄せて」といった旧来型のカテゴライズをやってきた同誌の傾向から言うと、かなり思い切った方針であった。
 アンソロジーでもう一つ。「現代短歌」9月号では「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」と題し、一九九〇年以降生まれの若手歌人六〇人による作品と短文のアンソロジーを企画。大森静佳・藪内亮輔による対談も含めて、かなりの紙幅を特集に割いていた。ただ、特集の割に、編集方針の荒さが(主に編集後記を中心に)目立ち、ネットを中心に寄稿者、読者から多くの抗議が噴出した。
  このアンソロジーに自分がなぜ呼ばれなかったのか、不満顔のきみのために理由
 を書こう。声をかけようとしたが、きみの連絡先がわからない。(中略)掘り出し
 た石は君の宝物で、人に見せたいが、市に並べて値踏みをされるのは御免だという
 気持ちはわかる。だが、こうして市が開かれてみると、もっと見事な自分の石がそ
 こにないことに、きみは茫然とする。ぼくらにできるのは今日仕入れることのでき
 た六百個の石ができるだけきれいに見えるように並べることだ。(後略)
 文体への抵抗感も含め、ネット上に既に多くの指摘や意見が出ているのでここではあまり深追いをしないが、編集後記に関して言うと、仮想の作者に向けて、当該企画に「選ばれなかった原因」をさも作者に原因があるように説明してみせる、というスタンスは編集態度としてあまりに軽薄というか、企画の要であるはずの人選に対して無責任に感じる。選に対し責任を持てないのならば、せめて余計なことを言わなければ良いと思うのだが。
  歴史をつくるのは暴力だと思う。けれど歴史抜きにものごとはすすまないと思
 う。わたしはこの本で自分が考えるここ二十年の短歌の歴史を紹介した。もちろん
 主観である(そもそもこのご時世に真の客観が存在すると信じている人はあまりい
 ないと信じたいけれど)。とはいえ、わたしの主観の中に存在する客観らしきもの
 がここはおさえたほうがいいのではという部分には耳を貸したつもりだ。良くも悪
 くもきちんと暴力をふるえていたらいいなと思う。それがいい本だということだか
 ら。
  (『はつなつみずうみ分光器』瀬戸夏子)
 今年5月に刊行された歌集アンソロジーの後書きから。真に客観的な短歌史、というものはそもそも存在しないことは前提として、後発の側から出来るのは、既存の短歌史的な文脈に対し、別の視点、また別の史観を提示することによって、わずかずつでも全体像を更新することしかないだろう。歴史の更新について考えるとき、個人的にはいつも河川の争奪のイメージがある。
 通史的なアンソロジー、歴史へのアプローチが現在地から過去を少しずつ変えていく試みだとして、同時代的なアンソロジーは同時代の価値観と、そこから先の可能性の提示のためのアプローチと言えるだろうか。
 何かを選ぶことは、別の何かを選ばないことに他ならない。歴史的な価値観の提示が暴力であるのと同様、選=同時代的な価値観の提示もまた暴力であり、メディアとしての権力の行使に他ならない。何かと切り結ぶためには、やはりそれが暴力であると自覚したうえで、行使していくしかないのではないか。

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