青蟬通信

リアリティということ / 吉川 宏志

2021年9月号

 中世に書かれた和歌の批評を読んでいると、現代でも同じように感じられることを、別の言葉で述べているのだなと分かって、嬉しくなるときがある。
  ほととぎす深きみねよりでにけり外山とやまのすそに声の落ちくる
                             西行 
 「外山」とは、人里近くにある低い山のこと。この歌について、藤原俊成は『御裳濯河歌合みもすそがわうたあわせ』で次のように評している。
「今まさしく聞く心地してめづらしく見ゆ。」
(いま実際に声を聞くような感じがして、新鮮に思われる。)
 俊成は、現在よく用いられる「リアリティがある」という批評と同じようなことを言っているのではないだろうか。
 西行から届けられた紙に書かれた歌を、俊成は読んでいた。見えているのは、墨の文字だけである。それなのに、ホトトギスの声が聞こえたような気がした。その不思議さに、彼は驚いたのである。
 リアリティとは、今この場にないものが、幻影としてありありと感じられることである。リアリティ(現実性)と幻想とは、逆の事柄のように見えるのだが、実は深いところでつながっている。
 俊成はなぜリアリティを感じたのだろうか。それはひとえに「声の落ちくる」という表現にあると言っていい。もし「声の聞こゆる」だったら、全く平凡な歌になってしまう。
 高い空を飛ぶホトトギスの鋭い声が、まるで物体のように落ちてくる、と西行は歌った。動詞は身体と結びついている言葉だが、「落ちくる」にはやはり身体で音を捉えている感触があるだろう。なるほど、西行はあの声をそう聞いたのか、と俊成は感嘆したのである。
 こうした反応が生じるには、俊成もホトトギスの声をよく知っている、という共感の基盤が必要である。ホトトギスの声を知らない人には、西行の歌はあまりいきいきと感じられないはずだ。
 そうした共感の基盤の上で、自分がまったく思いもしなかった表現を他者が生み出したのを見るとき、自分が今まで見ていた世界が変質するような衝撃を与えられる。だから、リアリティのある歌は刺激的だし、大切にされるのである。
 実際にあったことをそのまま書けばリアリティは生まれてくると信じている人がいるけれど、それは誤りといえよう。もちろん、ある程度の本当らしさが生じることはあるだろうが、読者をハッとさせる言葉の力がないと、「今まさしく聞く心地」は生じない。
 むしろ強烈なリアリティは、共感が他者の表現によって裏切られるときに生じてくるのではないか。
 西行の歌は、ホトトギスの声そのものを詳しく描写しているわけではない。もし声を忠実に描くなら「テッペンカケタカ」とか、音で写すのが最善になるが、そのように歌っても読者に感銘は与えられないだろう。
 つまり、リアリティというのはホトトギスの声自体にあるのではない。その声を聞いて新鮮な言葉にした西行という千年前の人間に対して、強い実在感をおぼえるのである。リアリティとは物自体にあるのではなく、表現を作り出した他者に感じるものなのだ。
  ワイシャツに縦縞ありて横縞のなきこと思ふクールビズ尽
                            田村元『昼の月』
 クールビズが終わり、またネクタイを締める秋が来たことを詠む。現代のビジネスマンのリアルさがある歌だと思う(「尽」はもともと「二月尽」のように月の終わりを表す言葉。この表現にも工夫がある)。
 たしかにワイシャツには縦縞があるが、横縞は(たぶん)存在しない。当たり前すぎて、それを意識する人はほとんどいないのではないか。私も全く気づかなかった。
 しかし、こんな発想をする人は確かにいるのである。そんな作者に驚かされ、強い存在感を味わうのだ。ワイシャツという物ではなく、他者に対してリアリティが生じる、ということは、こうした歌からも理解できるのではないかと思う。

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