短歌時評

運用と手順⑲ / 吉田 恭大

2021年8月号

 みなさまいかがお過ごしですか。この原稿が掲載される頃の話を、正直何も考えたくありません。劇場はあけられるのでしょうか。ワクチンはまだ打てないのでしょうか。オリンピックは中止しないのでしょうか。
 「短歌研究」7月号。『二〇二一「短歌リアリズム」の更新』という特集で、企画者の山田航さんと対談する機会をいただいた。特集では山田の問題提起のテキストを踏まえる形で、永井祐、手塚美楽、吉田、穂村弘の四名がそれぞれ対論する、という形式で、かなり広範にわたる内容に触れられていた。
 テーマの都合で紙面に収録できなかった部分もあり、また、他の方の対論から多くの示唆を得たところもあった。リアリズム、についてはもともと個人的にあまり得意なトピックではなかったものの、あらためてリアリズムについて考える良い機会になった。
 最終的に特集名としては表紙から消えてしまったが、本来の企画(山田の問題提起)は『口語による「短歌リアリズムの更新」について』であった。ので、私含め全員口語短歌の話をしている。
 総合誌の特集でも、状況的に「文語を対岸に見据えたうえで」口語の話を取り上げられることが多くて、そうするとずっと誰かしらが「口語=文語にはない現実に即したリアルな発話」故に「リアリティがある」という論法をしていた(あるいは求められていた)のだけれど、近年は必ずしもスタート地点を文語/口語に据えなくてもよくなっている。
  『Lilith』の栞で水原紫苑が「詩歌は口語であれ文語であれ、如何なる意味でも日
 常の言語によって書かれることはできない。すべての詩歌は翻訳なのである」と書
 いている。日常の言語が詩歌の言語にまっすぐつながらないということを踏まえ
 て、その間にいるわたしたちはどんな風にふるまえばいいのか。私から言えるのは
 文語・口語どちらがどうということはなく、あなたの詠みたいものとあなたの文体
 の両方が良くなる様に歌を作っていけばいいと思う。
                (廣野翔一「文語と口語についての私のメモ」)
                         中部日本歌人会会報第88号 
 作者方、作歌の上でのスタンスとしての文語/口語は廣野が言うように「どちらがどうということはなく」、実際好きにすればいいのだけれど、読者・評者としては口語とその効果について言葉を尽くす、尽くさなければいけないような場面は相変わらず多い。
 そういう意味で、「歌壇」6月号の特別企画「短歌における話し言葉の効果」は面白かった。トピックとして口語短歌、あるいは口語的表現の含まれる短歌の特質をある程度前提にしたうえで企画されている。
  これは偶にやるから効果的なのであって、乱用しすぎると面白みが軽減するよう
 にも思う。その兼ね合いが難しい表現方法ではないだろうか。   (後藤由紀恵)
  私見だが、話し言葉的な表現というのはわざとらしく見えがちである。話し言葉
 風の語尾をつけるだけで、普通に終止形で終わるより台詞っぽくなる。 (永井祐)
  短歌の中の話し言葉もまた、書き言葉(エクリチュール)の一種に過ぎないの
 だ。                              (ユキノ進)
 技法のひとつとして考えたときに、話し言葉的な表記そのものには自ずと限界がある。「書き言葉としての」話し言葉は定型詩においては往々にして、永井の言う「台詞っぽさ」から逃れられない。短歌研究での山田の問題提起は、その書き言葉としての口語を更新するものとして、ニューウェーブ以降の口語短歌の特徴に、平田オリザの現代口語演劇的な記述方法との共通点を見出すというアプローチを取っている。この共通点をどのように扱うかについて、読者としては引き続き考えていきたい。

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