上下句同文末 / 吉川 宏志
2021年8月号
短歌は普通、上の句と下の句の文末は異なる形にする。そのほうがリズムに変化が生まれて、歌がおもしろくなるからだ。
ところが何にでも例外はあるもので、上の句と下の句の文末を同じにすることで、独特の効果を生み出している歌がある。
かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり
前登志夫『子午線の繭』
右翼の木そそり立つ見ゆたまきはるわがうちにこそ茂りたつみゆ
岡井隆『朝狩』
どちらも有名な歌である。一首目は、あらためて考えると解釈が難しいが、言葉の響きがじつに美しく、陽に照らされたり影になったりしながら立っている一本の樹の姿が心に残る。「けり」の繰り返しが、永遠性のようなものも感じさせる。
二首目は、自分の心の中に潜んでいる右翼思想を「木」にたとえて歌っている。「見ゆ」「みゆ」の繰り返しが、その木の存在感を強調している。
こうした表現を仮に〈上下句同文末〉と呼ぶことにするが、文語短歌の場合は、強い結合感や統一感を生じさせると言っていいだろう。
口語短歌にも〈上下句同文末〉の作品はあるのだが、文語短歌のそれとは、ずいぶん印象が違っている。
いつかぼくは救われるだろうたぶんそこは小雨のなかの電気椅子だろう
加藤治郎『昏睡のパラダイス』
ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね
東直子『青卵』
おそらく、これらが先駆的な作品であろう。「だろう」や「ね」を繰り返すことで、死によってしか苦を逃れられないという諦念や、「ママン」(母親)に対する切迫した思いを表現している。
東の歌の解釈は難しいけれど、幼い子どもが必死に聞いている感じは伝わってくる。意味は明確に分からなくても、泣きたいような思いが感じられればいいのだと思う。
こうした歌の形は、新しい世代に静かに広がっていったのではないか。近年出たアンソロジー『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房)をめくっていくと、そんな歌をときどき見つけることができる。
外側を強くするのよ月光に毛深い指を組んで寝るのよ
飯田有子『林檎貫通式』
若いうちの苦労は買ってでも、でしょう? 磯の匂いがしてくるでしょう?
五島諭『緑の祠』
海蛇が海の深みをゆくように オレンジが夜売られるように
服部真里子『行け広野へと』
あなたいま声明を口にしていたわ ルリボシカミキリだけ見ていたわ
正岡豊(歌集未収録)
こうして並べてみると、何か共通性があるように感じるのである。不完全な問いを畳み掛けることで、答えることのできない空白感を生み出している。そういうふうにまとめてもいいのではないか。
同じ文末を繰り返すことで、言葉の勢いは強くなる。しかし、意味はつかみにくい。性急なのに、何が言いたいのかは不確かなのである。そのもどかしい感じが、奇妙なインパクトを生み出している。
なぜこのような歌が作られるのだろう。コミュニケーションの手段は豊富なのに、自分の思いは伝わらないという現代の感覚が反映しているのかもしれない。
最近出た第一歌集にも、この形が何度か出てきておもしろく思った。
ああきみは誰も死なない海にきて寿命を決めてから逢いにきて
平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』
変わったことがあったらどうか教えてねこわい天井だけ見ていてね
「きて」―「きて」、「てね」―「てね」と、句の最後で軽快に音が揃っている。これは、脚韻を多用する、音楽の〈ラップ〉に共通するリズム感覚でもあるのだろう。
多用すると新鮮さが失われるので、こうした歌の形が増えていくことを私はあまり望まないけれど、とても興味深い現象である。