短歌時評

運用と手順⑱ / 吉田 恭大

2021年7月号

 皆様いかがお過ごしですか。ワクチンは? オリンピックは? 二、三ヶ月先も分からない状況で、遡って私が二、三ヶ月後のための文章をこうして書いている状況、にいつまで経っても不思議な感じがしてしまう。
 歌会もすっかりオンラインになってしまった。歌会に出るために自宅に帰る、という状況も考えてみれば奇妙なものですね。
 媒体が変わることで表現の性質が変わる、という話を、この一年改めて考えている。
 「ネット短歌」のようなカテゴライズを今更やってもあまり意味がないと思うのだけれど、媒体に関して、現代短歌、を百年かけて紙媒体、活字文化に最適化されたフォーマットだと仮定した時に、段々とそこから変化していくものはあるのではないか。手段が変われば目的も自ずと変化してゆくものでしょう、という予感を最近特に感じる。
 もう少し限定した話で言うと、歌会がリアルからウェブ上に移行したことで、評のスタイルが少しずつ変化しているのではないか、ということを考える。『短歌』六月号、江戸雪の時評「コロナ、混沌、そして」を引く。
  試しにいくつか私も参加してみたのだが、自由に行われているオンライン歌会で
 は、さまざまな歌の価値観が持ち込まれていて刺激的だった。短歌とはこうあるべ
 きだという固定観念がないぶん、自分の短歌がひろがっていく感覚があった。もち
 ろんそれには賛否はあるのだろうが、少なくとも、誰かの批評を批評したり、笑っ
 たりするひとはいない。自分と違う読み、価値観にとても寛容だった。
 時評ではかつての「歌会怖い」の話にも触れられていたが(朝日新聞の短歌時評で大辻隆弘が取り上げたのが二〇一七年七月)、当時と比べてさらに新規プレイヤー数が増えたことによって、ネット上で企画されるイベント自体がより公共性の高い(とまでは言わずとも、なるべくフラットな価値観であろうとする)指向に変化しているようにも思う。とはいえフラットであろうとすることと、フラットであることはまた違うのだけれども。
 また違う話。これはあくまで私個人の体感だが、物理的な詠草(印刷され、書き込みができるもの)の有無によって、歌に対する意識が大きく変わることが分かった。特に韻律面の評は、音を把握したあとに視覚的に、紙ベースで書き込みをしないと見過ごしてしまいがちになる。最近はオンラインでもなるべく詠草を印刷し、書き込むようにしている。
 六月五日。未来短歌会による「岡井隆をしのぶ会」が開催された。会場は一般参加者を入れず、代わりにYouTubeでのオンライン配信が行われた。視聴者の最大数は分からないけれども、私が確認した時点では三百人を超えていた。アーカイブも含めた延べの視聴者数は数千人規模になるのではないだろうか。
 未来の歌人たちのそれぞれの岡井隆に対する思い、永田和宏、大辻隆弘両氏による対談など、総合誌の追悼特集とはまた違い、改めて聞くことができて良かった。
 勿論、可能なら広く参列者を募って開催出来るほうが良いに決まっているし、運営方としてはこの状況下で苦渋の判断だったであろうと伺われる。偲ぶ会、なのだから実際にゆかりのある人々が集い、その人を思い出す、ことが大切で、追悼の行為自体に、前提として人が集まることの意義が含まれる筈だ。
 人間が集まることそのものの重要性については、仕事柄この一年で死ぬほど思い知らされている。いるのだけれど。しかしほんの少しだけ。
 もうここにいない人と、その祭壇に向けられる、そこにはいない人々の沢山の眼差しに思いを馳せた時、故人とネット、双方の存在の希薄さも、儀式の一つのあり方と言えるような気がした。

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