短歌時評

運用と手順⑰ / 吉田 恭大

2021年6月号

 みなさまいかがお過ごしですか。ワクチンは接種されましたか?
 四月。とあるインターネットの記事をしばらく観測していた。ライターの島田彩による『ティファニーで朝食を。松のやで定食を。』という「エッセイ」として書かれたテキストで、仕事で西成を訪れた作者が、偶然現地で出会ったホームレスのお兄さんとデートをする、というような内容であった。
 ルポルタージュとして考えるならば、大変グロテスクな取材ではないか。例えば、西成地区の状況、取材対象のホームレス自身の経済的、社会的な困難さについては何も踏まえることなく、単にエモーショナルな異文化交流の体験記になってしまっているのではないか、など、テキストそのものについても考えさせられる部分が多かったが、内容面についての考察はここでは割愛する。気になった方は周辺の記事も含めて調べていただければ。記事に対する反響も含めすぐに出てきます。もし本文をお読みいただいて「心温まる異文化交流エッセイ」だと感じられたなら、それは作者の本来意図したところでしょう。
 インターネットのテキストに限らず。エモいテキスト/読者の共感を求め、感情を掻き立てることを目的とした文章は世間に溢れていて、それぞれに明確なメゾットとノウハウが存在する。そして、それらのライティングスキルに対する需要は、ここ数年でプロアマ問わず明らかに高まっているようだ。
 「分かりみが深くて読者に刺さるエモいエピソード」などと言うとまた顰蹙を買いそうだけれど、言い換えれば「泣ける」「感動する」「心温まる」物語は、いつの時代も需要があるし、そういうエピソードはしばし、それが真実=実話であることを看板に大きく売り出されていた筈だ。
 なぜ感動の物語に実話性が求められるかというと、受け手側が共感しやすく、想像力を仮託しやすいからに他ならない。
 (短歌連作の中で死んだ筈の父親が実際に生きていることが分かると、読者によっては裏切られたような気になる。これも、無意識のうちに実話性によって感動が担保されていると読者が感じるからではないだろうか/現代短歌ですらそうなのか。話が逸れた)
 共感と感傷を求めるテキスト自体、や、そのための修辞や演出は、別に悪いことではない。しかし、感情を掻き立てることが作品を売ることと同義になると、市場で求められる作品はより感動的な、より過激なものへと推移していき、制作者側はしばし倫理やモラルについて考えるのを後回しにする。感傷と共感のインフレバトルの行きつく先は24時間テレビではないだろうか。
 
 『ティファニー…』の記事の話に戻すと、このエッセイはそもそも大阪市が公募し、電通が受託した「新今宮エリアブランド向上事業」により発注された広告記事であった。
 行政主導のブランディングイメージのために制作された「現地の人とのふれあい」「心温まるエピソード」によって、地域が長年抱えてきた問題を隠蔽し都合のいいものとしてPRする。明らかな目的があって書かれたプロパガンダと言えるだろう。(大阪市のサイトには「新今宮地区の多様性と社会的包摂力」を発信する、というコンセプトが記されている。)
 感動や感傷を使ったプロパガンダ、は別にオリンピックだけではなく、私たちの目につくところで、目につかないところで、色々な形で運用されている。
 繰り返しになるが、共感や感傷そのものは悪いことではない。ただ、それがどのような意図の元に運用されているのか、少なくとも実作者の立場の人間は、もっと臆病になったほうがいいのではないだろうか。無邪気にやっているうちに、意図しない文脈に取り込まれることだっていくらでもあるのだし。

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