百葉箱

百葉箱2021年5月号 / 吉川 宏志

2021年5月号

  親が子の遺作使用の許可を出す捺印の手の定まらずして
                           若山 浩

 「親」とは自分のことだろう。子が先に亡くなると、こんなことも起きる。手のふるえは身体の衰えか。悲しみのためだろうか。
 
  朱すぎる口紅おさえ少しだけ棺の顔を母へ戻しぬ
                        佐原亜子

 遺体の化粧が濃すぎて、生前の母の印象と違っていた。簡素な結句に、哀感が籠もる。
 
  犬亡くしてなんの散歩と思いつつもあの角の家のまんさくの花
                              林田幸子

 犬がいない今は散歩して寂しいばかり。しかし早春の花の明るさに、少し心を慰められた。
 
  菊をそだて菊より低く屈むなどかうしてちひさくもう老いてゐる
                               千村久仁子

 菊と比べることで、縮こまった自分の身を感じている。文体にも、独特の屈折感がある。
 
  カシオペアを描いてロックを解除したスマホを渡す仄かに熱い
                              大江美典

 現代的な動作を、いちはやく歌で表現している。星座のカシオペアにたとえたのも美しい。
 
  悲しさはここが終点と言ってよあとはどうにか歩いてくから
                             松岡美佳

 バスのように終点があればいいのだが、感情は限りがないから苦しい。口語の文体に、切羽詰まった響きがある。
 
  ひょんの木にひょんの謂れの札の立つ林のはずれは立春間近
                             森川たみ子

 音が軽快な一首。結句にも春近い日の明るさがある。
 
  失敗作と焼かれし壺の滲み指すこの夕焼けとそっくりなのに
                             今枝美知子

 夕暮れに陶器を見ている場面。「この」よりも「あの」のほうが分かりやすい。失敗作と思えない美しさに心魅かれている。
 
  十字架の上でいつでもキリストは車に酔ったような横顔
                           はなきりんかげろう

 「車酔い」という発想が奇抜だが、何となく納得させられるから不思議だ。
 
  ツノのある動物はみな草食ゆゑ鬼も恐らく肉は食ふまじ
                           本田 葵

 これも意表をつく発想に驚かされる。鬼のイメージがひっくり返る楽しさがある。
 
  霧深き干拓地の朝身を沈め蓮根採りゆく人影うかぶ
                         白井真之

 霧の中でぼんやり動く人影が、映像的に浮かんでくる。「干拓地」「蓮根」という言葉に、強い手触りがある。
 
  晩冬の祈りにも似て銀色の蓋をゆっくり剥がすヤクルト
                           神山倶生

 上の句の比喩と、下の句の細やかな描写が響き合い、静かで敬虔な印象をもたらす一首だ。
 
  帰られぬ子が送り来る寒鰤の尾の先曲げて詰められてをり
                            壱岐由美子

 コロナ禍で帰れないのだろう。下の句の丁寧な描写で、寂しさがじわりと伝わってくる。
 
  ボールペンの先をだしたりしまったりはなれて生きるきみとわれとが
                                 星 亜衣子

 上の句の動作が、君とのすれ違いを象徴するようで、やわらかなリズムの中に哀愁が漂う。
 
  箪笥から冷ゆるズボンをとりだして人のかたちに変ふるあけぼの
                               中野功一

 冬にズボンを着るときの感触を、新鮮な言葉によって、リアルに描いている。

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