八角堂便り

紛らわしい表現 / 三井 修

2021年2月号

 藤島秀憲歌集『オナカシロコ』はとても面白い歌集だった。変な歌集名であるが、猫の名前とのこと。その中に「〈四度目の夫の入院〉四度目が夫に掛かると読めば楽しも」という作品があって、思わず笑ってしまった。彼が講師をしているカルチャースクールでの作品であろう。この作品(藤島の作品ではなく、その素材となった受講生の作品)を素直に読めば「四人目の夫」と読めるだろうが、我々は「四人目の夫」はかなり稀なケースだと思うので、「夫の四度目の入院」として読む。しかし、それは稀ではあってもあり得ないことではないので、もし実際に「四度目の夫」だった場合はどういう表現になるのだろかなどと思ったりする。
 「母に甘える幼子」という表現にも出会った。内容から「幼子」は作者の孫と判断される。短歌では、主語が明示されていない場合、一義的に作者が主語と想定するという約束事があるので、「母」は「作者の母」と読むことになる。つまり、「作者の母に甘える作者の孫」となって、幼子はその曾祖母に甘えているということになる。しかし、実際にはこの「母」は作者の母ではなくて、幼子の母のようだ。これなどは「その母に甘える幼子」と、「その」を入れれば明確になるのだが。
 また、ある作品で「銃弾が残る飯盒」という表現があった。これもこのまま素直に読めば、作者の父か祖父が復員した時に戦地から持ち帰った飯盒の中に銃弾が入っていると読める。振ればカラカラと音がするであろう。しかし、作者が表現したかったことは銃弾の跡が残る飯盒ということだったようだ。正確に言えば「弾痕の残る飯盒」であろう。
 また、「秋田内陸縦貫鉄道を電車が走っていく」という表現に出会ったことがあった。残念ながら秋田内陸縦貫鉄道を電車が走ることはない。同鉄道は電化されておらず、車両は全てディーゼル機関車、つまり気動車である。作者は車両の動力が何であるかといいうことには無頓着のようだ。
 「デイの日」という表現にも時々出会う。言わんとしていることは判るが、「デイ」は「日」であるから「日の日」となっておかしい。本当は「デイ・ケア・サービスの日」だろうが、字数が多いので、どこまで省略するか悩ましい。
 最後に紛らわしい字の話を一つ。これは私のカルチャーでの話であるが、「一つ一つ物資」という表現が出てきた。意味が通じない。詠草を纏めてくれた受講生に元の原稿を見せてもらったら、そこには丸文字の手書きで「ララ物資」とある。戦後、米国から日本に提供された救助物資である。年配の人なら知っているであろう。しかし、それを知らなかった若い詠草係は縦書き手書きの丸文字の「ラ」を「一つ」と誤読したらしい。

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