短歌時評

運用と手順⑬ / 吉田 恭大

2021年2月号

 「うたとポルスカ」という企画を睦月都、温の両氏と始めて一年が経った。
 下北沢の書店「BOOKSHOP TRAVELLER」の一角を借りて、歌集や詩歌の同人誌を選書し、売っている。小さな本棚で扱う品も限られているが、東京には大阪の「葉ね文庫」のような詩歌に特化した独立系書店が無いこともあり、どうにか手弁当で維持できるくらいには人が来るようになった。
 別に将来的に本屋を開店する目論見があるわけではないが、色々な書店の方の話を聞くのは面白く、詩歌の流通にもまだ多くの可能性があると気づかされることが多い。
 並行してウェブサイト「うたとポルスカ」を運営、こちらは睦月を中心に、いま自分たちが読みたい作者に原稿を依頼し、こちらも少しずつではあるが継続して更新している。塔の方もちょいちょい掲載されていますので気になる方は覗いてみてください。
 書店にも図書館にも読むべき歌集(本当は「べき」ものなんて何一つないのだけれど)が溢れ、ネット上にも短歌に纏わる面白いコンテンツや面白くないコンテンツが飽和している中で、私はこれを面白いと思う、という見取り図を自分なりに提示できたことは、思った以上に自分の精神状態に良い影響をもたらしている。これらの活動が、どれほど人様の役に立っているのか分からないが、己のために無理のない範囲で続けていければと思う。
 「短歌研究」十二月号の「歌壇展望座談会」、終わり付近の、穂村弘の発言を引く。
 
  年々、分業だなという意識が強くなるんですよね、自分の中で。近代をやる人も
 いれば、古典に踏み込んでゆく人もいて、かと思えばホストの世界とのコラボレー
 ションがあったり。共通点は短歌という一点だけ。短歌の「全貌」に触れなくては
 みたいな意識というか焦りが若い頃はあったけど、もう無理というか、そっちは任
 せたそっちもお願いみたいな感じにだんだんなってきました。全体が緩くつながっ
 て完全にばらばらにまでならなければいいんじゃないかぐらいの気持ちです。
 
 「全貌」が見えている人間はもはやどこにもいないのではないだろうか。「本流」くらいだったらそれを志向し、信仰している人たちの中にはあるのかもしれない。私たちはそれぞれの宇宙でめいめいやっていくしかないが、交易のためには最低限の共通言語と地図が必要になる。言語はどこかの集団の中で、例えば結社で、培われてゆくものなのかもしれない。地図は読み切れないほどたくさんある先行作品を読んで自分なりに作るしかない。言語と地図は持って行った方が道に迷ったときに遭難しなくていいですね。
 分業、島宇宙化の進行を憂う声もことあるごとにずっと聞こえるが、個人的にはそれでもいいのではないかと思う。本寸法の古典が存在する世界なら古典派と新作派との対立もあろうが、そもそも古典をどこに設定するかすら相対的な問題になるだろう。(誰を古典、というか正典とするか、という議論自体は大変興味深く、安易な世代間対立を煽るよりよほど有意義だと思う。)それぞれがそれぞれの仕事をしながら、面白そうなところを共有していければいいのではないだろうか。
 作品を発表するだけなら、インターネット上で誰でもすぐに始めることができる。総合誌、新聞、新人賞も含め選を受けたければ投稿先には事欠かない。佐佐木幸綱のかつて言った「歌壇カラオケ状態」が、あるいは今や「詠ってみた」となっている状況である。作品発表に限らず、どこで何をするか(あるいは何をしないか、という選択肢も含めて)ということを、個々の創作者は今一度考えていく必要があるように思う。

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