百葉箱

百葉箱2020年11月号 / 吉川 宏志

2020年11月号

  父母に一度きりの旋回を見せて知覧を従兄(あに)は発(た)ちしと
                              長谷仁子

 いつ特攻に出るかは秘密だったらしいが、最後に勇姿を見せたかったのだろう。家族の中でずっと伝えてきた、大切な記憶を、歌の中に留めようとしている。
 
  うつそみの人を避けむと朝まだき参りしものを墓所まだ開(あ)かず
                                篠野 京

 独りで死者と向き合いたいのに、思いを挫かれた。少し滑稽な中に、深い寂しさが宿っている。
 
  弟の逝きてなな年わが背なに谷津の山鳩七年きこゆ
                         中村佳世

 弟の死から七年経ち、ずっと山鳩ばかり聞いていたように感じている。「背な」「谷津」などの言葉に静かな奥行きがある。
 
  匂ひから梔子の花咲きはじめ雨のすきまを春馬は逝けり
                           渡邊美穂子

 上の句が巧み。「雨のすきま」に消えるように自死した青年を愛惜する気持ちがこもる。
 
  つり革は鉄の棒から逃げられぬ抑圧されたことばのように
                            関口健一郎

 シンプルな比喩の歌だが、上の句の把握が面白いし、下の句は現代の状況を強く反映していて、身に迫るものがある。
 
  いつか絵に描くかもしれず父が死ぬ日のけやき路を二、三枚撮る
                               田村龍平

 「いつか描くかもしれず」という、父の死との距離感にリアルな味わいがある。
 
  肥料むらといつか聞きしよ雲の影置くごと青田の色の濃淡
                            小島美智子

 ときどき気づく風景だが、なるほどと思わせる。「雲の影」の比喩も優しい感じである。
 
  生きてゐるかぎり若書き空蝉は白南風のなか揺れゐるばかり
                             穂積みづほ

 上の句が痛快。記憶に残る箴言を創ることも大切だ。
 
  祝祭のごとく鋭い雨は降る誰もが遺書を書くわけじゃない
                            大橋春人

 下の句は当然のことだが、改めて書かれると、言葉を残さない死の哀しさを感じさせる。
 
  飛翔とふ帆翔とふ繊細な文法として駆ける鳥たちよ
                         戸嶋博子

 難解だが、心惹かれた一首。「帆翔」という語の選びがいい。飛ぶことこそが、鳥にとっての文法である、というイメージか。
 
  「息をしない遺体からウイルスは排出されない」ああ、知つてゐたら
                                 藤 かをり

 遺体に会うことができなかったのだろう。結句が痛切。
 
  半額の刺身パックに浸みている濁った汁 そのような明日よ
                             平出 奔

 上の句の比喩が即物的で強い。第四句の句割れのリズムが印象的で、屈折した思いが滲む。
 
  八月のテレビドラマに声のみの出演をする昭和天皇
                         よしの公一

 これも当たり前なのに気づきにくいところを捉え、妙なインパクトがあり、諷刺がある。
 
  うわばみ草手で折りながら皮をむく 母のリズムを知らず覚えて
                               佐藤裕扇

 「うわばみ草」は山菜の一種。凄い名前。下の句から、母の身体感覚を自分が受け継いでいることの嬉しさが伝わってくる。
 
  焼きなすはいいよね、焼いて剥くだけで。こんなときでもちゃんと作れる
                                  山河初實

 何かつらいことがあった日なのだろう。それでも食べなければならない悲しさ。焼きなすの温かさが胸に沁みる感じがする。

ページトップへ