百葉箱2020年10月号 / 吉川 宏志
2020年10月号
おやまへと柏手うてばしはぶきのやうなるものが二つ返り来
川田伸子
「おやま」は三輪山だと前後の歌で分かる。神の山とコミュニケートするような感覚。
土蜘蛛とまでは言わぬが納豆をかき込む息子糸吐いてるぞ
松浦わか子
「土蜘蛛」の比喩がユニーク。「とまでは言わぬが」の口調もまたおもしろい。
ながぐつでつくつた傷の手当てするわれもまた腐りやすき身体
岡本伸香
下の句の断定が強く印象に残り、考えさせられる。「ながぐつ」の傷というのも具体的で、場面がなまなまと伝わる。
梅雨寒の海馬の奥に潜みたる妻が呟く「胃瘻はしません」
島田章平
記憶に残る亡き妻の声。今聞いているかのように蘇ってくるのが切ない。「梅雨寒」という季節感にも身に沁みるものがある。
塀を越すみかんの枝に来し揚羽、塀のなかへと入ってゆけり
石田俊子
さりげない歌だが、揚羽蝶の動きがいきいきと目に見える。リズムがくっきりしている。
かへらない子を待つ部屋にながめゐる昆虫図鑑のアリの眼のさんかく
吉田京子
図鑑に拡大された蟻の眼が三角形というところに、リアルな気づきがある。人を待つとき、ふと細部がよく見えることがある。
説明の過ぎた授業を終えし後フェイスシールドの唾を拭きたり
鈴木健示
授業にも説明のしすぎということがあるのか。現場ならではの感覚だ。下の句、いかにも現在的で、具体的な手ざわりがある。
直線を帯びて降り来る雨やがて線を放して池の面(も)に入(い)る
千野みずき
やや理の勝った発想とはいえようが、雨が池に落ちた瞬間に、線を手放す、という見方に独自性がある。
何枚も田を植え終えし正夫さん空と空との境目に立つ
佐々木美由喜
田の水に空が映り、畦道にいる人が、空の境目に居るように見えるのだ。美しい情景。「正夫さん」の人名もいい。
われらには見えぬ柩に蝉眠る六本の脚きちんとたたみて
中村英俊
死んだ蝉が目に見えぬ柩に入っている、という奇想に凄みがあり、思わず納得してしまう。
「大丈夫?」正答例は「大丈夫。」誤答の例もまた「大丈夫。」
松岡明香
相手を安心させるための言葉。それが逆に自分を追い詰めるときもある。ぶっきらぼうな文体であるが、本質を衝いている。
ストローを強く噛んでも雨でした出勤前の渋谷がきれい
草薙
ストローと雨は直接の関係はないが、それを強引につないだところに詩が生まれている。「渋谷」という街のもつ淋しさを感じる。
草刈り機の先の丸刃を影でみる 花のようだと言いさしている
星 亜衣子
危険な刃だが、影は花のように優しい。そのギャップにためらいを感じたのだろう。結句はやや惜しいが、繊細な感覚がある。