百葉箱2020年7月号 / 吉川 宏志
2020年7月号
一日ひとひ山にひろがる花の白さ広がるものを恐るこの春
西川啓子
桜とウイルスは別物だが、いつもの春と違い、増殖するものを恐れる感覚はよく分かる。リズムにも膨張する感じがある。
宇宙とはひとつの雨粒だとしたらだとしても君のかたちを見たい
鈴木晴香
三句から四句へのリズムに勢いがあり、不思議な内容だが、説得力をもって迫ってくる。
病室の窓の開くはわずかなり弥生の風を君はよろこぶ
谷口公一
閉ざされた病室の中で、春の訪れを喜ぶ「君」を見守る作者のまなざしが哀切である。
橋をゆき橋をかへるも日永といふ言葉のうちなりひとり春の日
千村久仁子
「日永」という言葉があるからこそ、孤独でもこんな豊かな気分が味わえるのだ。ゆったりとしたリズムで、春のやわらかな感触をうまく捉えている。
山椒の小枝の緑に顔を寄すマスクを右の耳のみ外し
大久保 明
マスクの歌は多かったが、この歌は下の句の描写が細やかで、強い臨場感が生じている。
観音のまなざし受くるところまで膝を進めぬ春のみ堂に
西山千鶴子
この歌も「膝を進めぬ」という動作の把握がよく、冷たい御堂の床の感触まで想像できる。
観覧車止められてゐる輪の中を春の疾風(はやて)が吹きぬけてゆく
加茂直樹
止まっているからこそ、観覧車が「輪」として感じられるのだ。コロナ禍の歌の中でも、新鮮な発想があり、目を引く一首。
じゅうねんの別名ありし荏胡麻なれ除染の田圃に結実したり
伊勢谷伍朗
食べると十年、命が伸びるからこんな名があるらしいが、震災から十年近く経ち、感慨深く思い出されたのだろう。事実のみを歌っているが、奥行きのある歌。
替えがきく寂しき部品の一つなり故志村けんのコントの女優
大江いくの
志村けんの歌も幾つかあったが、この歌は独自の批評性があり、印象的。人間の営為の虚しさも感じてしまう。
ガラス戸にふえる手の跡ドアノブを握らぬ人の多きこのごろ
大江裕子
ウイルスを皆怖れ、ドアノブを握らないのだ。人があまり気づかないことを描き、現在をリアルに捉えた一首になっている。
鍵穴が胸ではなくて掌にあるような人と対話しており
山川仁帆
奇抜な発想で、気持ちが通じにくい相手との関係を歌っている。エイリアン的な面白さ。
来なかった道を戻って帰らなきゃ 縦より横の長い夕焼け
真栄城玄太
上の句、よくあることなのだが、言葉にするとちょっと不思議な感じが生まれる。下の句も言われれば当然なのだが、強烈なイメージが生じてくる。
よろよろとのぼりゆくから鎧坂母が言いし坂今日も変わらず
鈴木佑子
「鎧坂」の語源に意外性がある。よろよろと上りつつ、母の言葉を思い出し、過ぎ去った時間をしみじみと感じている。