百葉箱2019年8月号 / 吉川 宏志
2019年8月号
曇り日のからすがよぎる窓の辺で次男がにきびに薬をつける
千名民時
何でもない場面なのだが、組み合わせが魅力的で、くっきりと目に浮かぶ良さがある。
「となりの手はなさないでね」離さずに園児は待ちけむ轢かるる前も
大河原陽子
幼稚園児に車が突っ込んだ事故の前の瞬間をなまなまと想像させられる。とても恐ろしい。
多摩川の流れにしばし目をおきて父の近況母より聞きぬ
徳重龍弥
離れ住む父のことを、直接聞けない、という距離感。「目をおきて」という表現に、寂しさやためらいが滲む。
ふと妻を「サザエ」と呼びしことあらむ増岡弘はかの声をもて
益田克行
マスオさんの声優の人。現実と虚構が混じり合う状況を想像し、ユーモアに満ちた一首。
早咲きの桜の見ゆる窓の冷え彼女の帰路にある橋おもふ
森尾みづな
美しく、奥行きのある歌。この「橋」は作者には見えないものだけれど、視線が重なるよう。そこに共感的な哀愁がある。
引き出しが途中何かに引つかかり開かない時は多分電卓
本田 葵
よくあることだが、歌になるとは思わない事柄を歌にしている。意外な新鮮さがある。
身ぶるひて口づけしてゐる雀たちわれにもありしよ身震ひし時
江見眞智子
自分の「口づけ」を回想しているのだが、婉曲的に歌うことによって、初々しく切ない味わいが生まれている。
罵声よりほかにあらがう術(すべ)もたず罵声ばかりが咎められおり
篠原廣己
基地反対運動を詠む。権力に対抗するには言葉や声しかないのだが、それさえも「罵声」と括られ、抑圧されてしまう危機感。
揖斐川が山でるところ姥坂(ばさか)には二千の花桃ならびて咲けり
西 真行
「姥坂」という固有名詞や、二千という数字が効いていて、明るい山間の情景が目に見える。
震度四、あなたが揺れる母揺れるだれもかれもが揺れているんだ
満吉敬太
「揺れる」の繰り返しに臨場感があり、全員が戸惑い、おびえる様子が伝わってくる。
ウグイスを聞きつつ配りし山の村配達終りて聞き直しにゆく
石川 啓
働きながら聞く鶯の声と、仕事が終わった後に聞く声と。とても良いところを捉えた歌で、渋い味わいがある。
鯉幟橋に吊るされ七つ八つ間をくぐりて白鷺の飛ぶ
川合晴司
簡潔に構図だけを描いているような歌で、映像を見るようなおもしろさがある。
ラインマーカー一字はみ出す「た。」と君の光たばねるポニーテールと
羊 九地
上の句、とても細かいけれど、断片的なイメージの魅力がある。若い日々のいくつもの光を切り取って、壁に貼っているような感じで読んでみたい。
もしもだが彼女と結婚していたら家族に増えた果物の名前
内田裕一
「桃子」のような名前の彼女だったのだろう。ありえたかもしれない未来を空想する切なさと、情けなさがある。