百葉箱

百葉箱2021年8月号 / 吉川 宏志

2021年8月号

  鹿避けのネット掻き分け潜り抜け地権者宅の入り口に着く
                            後藤正樹

 土地の管理の仕事の歌。「掻き分け潜り抜け」に山辺を歩く実感が籠もっている。
 
  眼鏡を外すちいさな仕草があなたにもあると思えり灯り消しつつ
                               橋本恵美

 作者も眼鏡をかけていて、「君」と同じ動作をすることに、ほのかな喜びを感じているのだろう。温かな味わいのある歌である。
 
  窓口をマドと呼んでいた日々のほとりにあったさくらの木陰
                             山名聡美

 銀行などの窓口で、働いている人は略語で呼ぶのだ。そこから見える桜の木陰に、仕事の苦労を慰められていたのだろう。
 
  麻痺したる君の起床を手伝いて卵焼きのごと布団巻きゆく
                            中野敦子

 介護が大変な日々だが、「卵焼き」の比喩に明るさがあり、その言葉で前向きになってゆく。
 
  南へと窓のひらけて春の日のジグソーパズルは端から攻める
                             長谷川 琳

 窓の明るさとジグソーパズルの複雑さの対比に面白さがある。「攻める」に臨場感がある。
 
  眠る子のそばに置きたり熱残るアイロンビーズは苺のかたち
                             吉田 典

 「熱残る」がよく、アイロンビーズの手ざわりが伝わってくる。静かな寝息も聞こえるよう。
 
  しやぼん玉ゆらりと我を離れゆく山を歪めて海を歪めて
                           廣 鶴雄

 「離れゆく」が巧い。スケールの大きな一首となった。
 
  二つ目の橋の金具が月光を拾って光る大雪の前
                       佐原八重

 「月光を拾って」という表現が魅力的。雪が降る前の空気や光の変化を敏感に捉えている。
 
  面会を中止してゐる病院へ着替へを届け着替へしをもらふ
                            森 絹枝

 コロナ禍で面会ができないのだろう。下の句の対句が印象的で、病人の体温も感じられる。
 
  臨という字にいくつもの窓がある春が終われば臨月となる
                            万仲智子

 漢字の見方がユニークで、そこから「臨月」に展開する歌の作りにハッとさせられる。
 
  選ばない方の理由が真実で花の筏は対岸へ渡る
                       月下 香

 選んだ理由より、選ばない理由のほうに、本心が潜んでいる、ということか。考えさせられる一首。下の句も象徴的で美しい。
 
  どんぐりはオセロの駒になりすます夫なきあとの余白の遊び
                             坂東茂子

 上の句はかわいらしいが、そこから夫を失った空白感に流れ込む。胸を衝かれる歌である。
 
  どことなく噛み合わぬまま医師は死を吾らは生を見つめて話す
                              川述陽子

 医師は死を前提して話すときがある。このすれ違いの感覚はよく分かり、共感して読んだ。
 
  ガイトウは街燈ぢやない「国人録」更新のたび指紋とられて
                               石川休塵

 「街燈」という言葉が打ち消されることで、光が消えたように暗澹とした思いが浮かび上がってくる。内容も重く深い。
 
  麦の穂に波を立てたる一陣を「風の足あと」と女童の言ふ
                            坪井睦彦

 女の子の詩的な言葉を捉えた。「一陣」も効いている。
 
  ほたるいか泥酢(どろず)に浸(つ)けて一尾二尾喰ひ切る喰ひ切る春を喰ひ切る
                                 王藤内雅子

 「泥酢」の語や、「喰ひ切る」の反復により、食べる行為のなまなましさが迫ってくる。

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