八角堂便り

をりぬ(おりぬ) / 真中 朋久

2018年10月号

 文法的に間違っているわけではないのだが、古典には無い(ほとんど出て来ない)言い回しというものがある。近代文語と言うものか。それはそれで通用しているのだが、字数合わせのために、ニュアンスを無視して使っている例が多いように思うので書いてみる。たとえば文末の「をりぬ」。これが過剰な感じを出してしまうことがある。
  罵らんとぞする心押ししづめ押ししづめをりぬ寂しきに堪へ
                            窪田空穂『濁れる川』
  鹿兒島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは
                            齋藤茂吉『つゆじも』

 「しづめ」「疲れ」というのは、既にある程度は継続した行為や状態であって、それが継続していることを「をり」が示し、さらに「ぬ」が念押しする。「ぬ」は完了というよりも強意。一首全体の意味からして、このしつこい念押しは、それほど違和感ない。いずれも大正時代の作品で、私の知る範囲では、だいたいこのあたりが「をりぬ」の上限。もっと古い用例はあるのかもしれないが、少なくとも中世以前には無いのではないか。
  九十九谷(くじふくたに)見おろしをりぬ折々に茅蜩(ひぐらし)の啼くこの山のうへ
                             佐藤佐太郎『歩道』

 このあたりになると「見おろす」で済むところ、「をり」でずいぶん長く見ていた感じがして、さらに「ぬ」で強調される。もちろん、その強調に作者の文体というか、作品の味わいがあって、「をりぬ」を使って駄目になったわけではない。「をりぬ」まで言うことによって、そこに存在している作者の内面の混沌が強く感じられてくる。
 ただ、これを「見おろす」としたときには千葉・鹿野山からの眺望の爽快感が、さらに「見る」「見おろす」という動詞も消し去ると、作者の存在はぐっと作品の奥底=背景に引いて大自然それ自体のことが歌の中心になる。作者が表現したいのは何か。
 そういうニュアンスの違いを、自作の推敲の時にも考えたほうがよいと思うのだ。往々にして、定型にはめこむために省略の必要性に迫られたり、定型を満たすために助詞や助動詞をつけ加えたりするが、そのことによって、歌意そのものが大きく変わることがある。散文的解釈としては微差でも印象が大きく変わってくる。そこが面白いのだが。
  熱ありて目のうるむ子がストーブの赤き炎を見つめておりぬ
                          池本一郎『池本一郎歌集』

 もうひとつ。行為や状態に「おり(をり)」がつくのは、この作品のように他者の行為や状態である場合が多い。自身の行為の場合にも、どこか客観視した感じになる。主語を略するようなときには注意が必要かもしれない。

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