短歌時評

自己認識と共通認識 / 濱松 哲朗 

2018年10月号

 短歌ムック「ねむらない樹」が創刊された。年二回発行の予定らしいが、何よりこれは新鋭短歌シリーズ以降注目を集める書肆侃侃房が、満を持して発行した短歌専門誌である。読み進めながら、他の総合誌との差異を思わずにはいられない。短歌の雑誌であるはずなのに、小説の文芸誌や「現代詩手帖」を読んでいるような手触りを筆者は受けたが、恐らくその理由は、先々月取り上げた『短歌タイムカプセル』と同様に、歌壇的・歌壇史的ヒエラルキーから適度な距離を保ったところで誌面が成立しているからであろう。
 新鋭短歌シリーズと「ねむらない樹」の関係は、ゼロ年代でいうところの歌葉と「短歌ヴァーサス」の関係と近いように見える。実際、シンポジウム「ニューウェーブ30年」の採録中でも、新鋭短歌シリーズの監修者である加藤治郎は歌葉について「新しい歌の基盤を作った活動として、場のニューウェーブはあった」と述べ、荻原裕幸も「短歌ヴァーサス」について「寄稿者が若い層にシフトした。そんな動きを作ろうといつも意識していました」と回顧している。
 回顧的イベントだったせいもあるだろうが、件のシンポジウムの採録では、登壇者四名(荻原、加藤、西田、穂村)の当事者性・・・・自己認識・・・・が、些か強すぎるまでに出ていたように思う。例えば穂村弘は、歌壇の側が「前衛短歌とニューウェーブを二重写しに見てしま」い、「まるでわれわれが意図した運動体であるかのように誤認された」と述べながら、「口語体というのは、前衛短歌の最後のプログラムだった」(加藤治郎)という「有名にして意味不明な一節」を、前衛短歌に対する「強迫観念」や「憧れ」として読み解く。荻原裕幸は、「われわれは個々で方法意識を持っていたわけですが、ライトヴァースとはちがう何かを持っていたかというとそうでもない」と言いつつ、方法意識に対する外部からの期待が「ニューウェーブという呼び名を誤認することと引き換えに要求された」と述べる。当然ながら、意図・・偶然・・に関する彼らの自己認識・・・・と、三十年前や今現在の歌壇の共通認識・・・・とが整合しないことは、修正すべき事案ではなく、単に事実として受けとめるべき対象である。今回、自己認識・・・・の一面性が最も強く顕在化したのが、女性歌人とニューウェーブについての部分であり、だからこそ東直子は彼らの自己認識・・・・に、共通認識・・・・の側から強い疑問を投げかけたのである。「(女性歌人は)天上的な存在として思っています」(加藤治郎)等という見解が彼ら四人の共通認識・・・・でないことを願う(これは同じ地平に立つ者とされていなかっ・・・・・・・
た事実・・・への怒りと絶望であり、分類してもらう・・・・・つもりなど毛頭ない)。
 ところで、新鋭短歌シリーズ以降、ニューウェーブの一人である穂村や、あるいは俵万智、枡野浩一らを先行世代とする新たな層の作者にスポットが当たりやすくなってきた。『サラダ記念日』や『かんたん短歌の作り方』や『短歌という爆弾』が多くの人に開かれた入り口として機能してきた事態を、文学とは相容れない新自由主義的な市場原理の結果として切り捨てることは容易いが、彼らの影響は三十年経った今、平成生まれすら執筆者陣に含まれる「ねむらない樹」に、ある成果と蓄積(=歴史・・
)を伴って現れている。それ・・がもはや、ある時代の共通認識・・・・になろうとしている事実を、切り捨てた側も受けとめねばならない時期に来ているのではないか。
 繰り返すが、ある基準によって選んでもらう・・・・・・ことが歴史ではない。自己認識・・・・と、間主観的な共通認識・・・・のせめぎ合いの中で書かれるのが歴史である。そうしたせめぎ合いが、歴史叙述における倫理的テーゼではなかったか。

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