短歌時評

いま、歌人論にもとめること / 濱松 哲朗

2018年9月号

 「基本的歌権」というワードが話題になっている。「心の花」七月号(創刊一二〇年記念号)の記念座談会の中で穂村弘は、ある会で「若い作者の歌」の語法の欠点を指摘したところ、同席していた寺井龍哉に「「今は、歌会とかでは、そういう批評は無しなんですよ」と言われて(…)基本的歌権みたいな空気が広がっていて、現にこう書かれていんだからそこには必然性があったという前提があって、歌会の批評はその上でより効果的に読みあうことなんだって言うんですよ。ショックでした」と発言している。穂村の発言のすぐ手前で、斉藤斎藤も「歌会とかで、一首の歌を最大限よく読んであげるのが礼節だ、みたいのが広がり過ぎちゃって、人単位では考えなくなっている」と同様の違和を表明している。「心の花」の座談会よりも先に活字となった「短歌研究」六月号の坂井修一との対談でも斉藤は、穂村の「基本的歌権」発言を引きつつ「一首の言葉から作者の「やりたかったこと」を逆算して、その「やりたかったこと」からするとこの歌はこうしたほうがいいんじゃないかみたいなことを言うのが歌会だと思ってた」と言い、「一首の言葉の配置から、作者がどういうことをやろうとしたのかを読み取るのが作者主義。読者主義とは、作者の意図とは関係なく、その歌が一番よく見える、一番面白く読める読みが一番いい読みだという考え方です。そのようなことを、若い人がよく言ったりするんですね」と発言していた。
 「若い人」の側に「基本的歌権」の具体的なマニフェストを示した文章が存在するわけではないが、仮にここで、「現代短歌」八月号で北村早紀が短歌と作者の関係について「短歌自体よりも短歌の奥に存在する作者こそが作品なのだ(…)というスタンスのひともいることでしょう」と留保し「多様なあり方を認めるべき」と書きつつも、「いま、作者としての私は(…)ただフラットに作者として扱われたい」、「味わってほしいのは作者自身ではなく短歌」だと述べていたのを隣に並べてみるとしよう。北村の時評は「Sister On a Water」創刊号(二〇一八年六月)掲載の、喜多昭夫による服部真里子へのインタビューを問題にしたものであったが、要約すると、作者のプライベートを知ることが目の前の作品への深い理解に繋がるという誤解・・ が、作品と「実際の私と比べて「答え合わせ」をする」、「その歌の可能性を、たったひとつの事実の中に押し込める」姿勢の根本に存在していることを北村は指摘したのであった。
 勿論、斉藤の言う「作者主義」は「一首の言葉の配置」を問題にするのであって、それは作者個人のことではない。あくまで「一首の言葉の配置」から「作者の意図・・・」を読み解くのであり、野次馬的な個人情報の入る隙は無い。だからこそ、斉藤の「多様な部分を多様なままに表現することで人間の全体像が立ち上がってくる」という発言の意図を、「読者主義」とされた若手の側はよく読み取る必要があるだろう。仮に非一人称的作品であったとしても、そこには表出した言葉に対する作者の統一的意図が作品化された時点で機能している。「より効果的に」「最大限よく読んであげる」「読者主義」的読解が、無記名的で最大公約数的になればなるほど、一人称/非一人称の問題を含め、結果的に「人間の全体像」に含まれる多様性をも潰し、多数派的な最適解に堕ちてしまう可能性は常にある。
 「心の花」の座談会では、歌人論が書かれなくなったことを危惧する声もあった。「一首の言葉の配置」に基づき「多様な部分を多様なままに」批評する歌人論がいま、求められている。読みの場が、作者―読者間の「意図・・」のヒエラルキー合戦になっては困るのだ。

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