八角堂便り

前登志夫の言葉からの雑感 / 江戸  雪

2018年4月号

 前登志夫が亡くなって四月五日で十年になる。このたび散文集『いのちなりけり吉野晩禱(ばんとう)』(河出書房新書)が出た。
 「ことしも桜が咲きはじめた。こんなに清々しく華麗な饗宴が年ごとの春に訪れる
 火山列島とは何なのか。」
 吉野に棲み、吉野を詠い、語り続けた前である。散文集の冒頭に置かれた一二年前のこの文章に引き込まれる。ゆったりとして感覚的、ときに独創的、さらに言葉が重い。自然と徹底的に融和し、畏れ、「影武者」として「世界の真実を伝承」しようとした者の凄みなのか。
 前登志夫に憧れながら、私はさまざまな理由で大阪の街中に二十五年間住んでいる。親しいこの場所で歌会がしてみたくなり、「中之島歌会」を始めた。おもにTwitterとチラシで呼びかけてみた。集まったのは塔をはじめ結社に属するひと、ネットで活動しているひと、歌会は初めてだというひと…年齢も性別も様々、もちろんメンバーも回ごとに入れ替わる。
 私は、結社に入っていない歌人たちの歌会に何かのきっかけで数年前から参加するようになった。その際にぶつかるのが読みの違い。手本にする歌人はいない、独自の感覚と方法で歌を作る歌人たちの歌会では、当初は極端な感情移入や深読みが気になった。それまで結社の歌会や、歌集を読むなかで培ってきたつもりだった自分の読み方とは明らかに違う。孤軍奮闘。それでも同じ短歌なのだからと思い直して参加しているうちに、お互いの共通点も見つかるようになってきたが。
 パンダだと油断してたらパンだった黒いところはコーヒー風味
                                 谷じゃこ
 
 谷じゃこは、ネットで活動している大阪の歌人の中で異才を放っているひとり。一読して笑ったあとじわじわと皮肉や暗い享楽が滲むのが彼女の歌の魅力で、この歌も上の句は笑える。問題は下の句。中之島歌会では絶妙にいいという意見もあれば、余分だという意見もあった。私は後者に賛成なのだが、どうだろう。
 ぱたぱたとタオルを振つて干すときにあなたがゐない此の世と思ふ
                           永田和宏『午後の庭』

 うすべにの鯛の刺身の吾にあはぬ美しさなれば箸とめ眺む
                       伊藤一彦『遠音よし遠見よし』

 冒頭の前登志夫の散文集に「女性が人生の長い歳月を、歌を作りつづけるのは、(略)不気味なところがある。(略)男性の場合は不気味さとか、あわれではなく、ユーモラスなのかもしれぬ。」とある。長い歳月を詠ってきた二人の男性歌人の最新歌集には、品のいいおかしみ、その地続きにほの暗い生命をなまなまと感じる。私は、短歌で何かを動かすことができるとはおもわない。けれど無力であることもまた力であることはまぎれもない。無力であることでひとの心に染みとおるのだ。そんなことをおもったりしている。

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