短歌時評

「内と外」を超えるために / 濱松 哲朗 

2018年1月号

 第三十五回現代短歌評論賞は、雲嶋聆「黒衣の憂鬱――編集者・中井英夫論」に決定した。受賞評論で雲嶋は「現代短歌は斜陽文芸である」と言い、「純粋読者の獲得、それこそが歌壇にとって喫緊の課題なのではないか」と指摘する。そして、「変革期には優れた編集者の存在(…)あるいはジャーナリズムの主導があった」として、中城ふみ子や春日井建をプロデュースした時期の中井英夫の例を挙げる。歌壇の内と外に対する目配りを絶やさなかった中井の姿を通して、歌壇外への回路を如何に開き、純粋読者を獲得するかを考察する、という論理構造である。
 雲嶋の評論は、中井英夫に関する読み物・・・としては確かによく纏まっている。だが、歌壇のガラパゴス化を指摘する際に、「総合誌が商業誌である」から「歌壇外にも通じる新人をこそ発掘すべき」とする結論には、各雑誌の講読者層や売り上げに関する分析や、文化資本として短歌という文芸ジャンルを考察する観点が欠落している。
 更に雲嶋は、「歌壇内/歌壇外」の二分法を用いながら「やがて短歌は歌壇内にしか通用しない奇形文学として突出するものと、およそ言語芸術というには程遠い大衆の呟きに堕すものとに二極化してしまう」と指摘する。新人作家に対する同時代的批評を重視し、「歌壇の内と外」の相違や懸隔を分析し必要に応じて埋めるべきだとする主張には一見説得力があるが、ここで確認しておきたいのは、同時代的批評そのものが構造的に孕む、一歩間違えれば読者に対する政治的アジテーションや安易な啓蒙主義に堕ちる可能性についてである。自身の論が作品読解における「多数派/少数派」を発生させ、新たな「内と外」のヒエラルキーを生み出してしまう可能性について、雲嶋はどれだけ自覚的なのか。それは今後の彼の書きぶりにかかっている。
 それにしても、「短歌総合誌のあたらしい役割」という、入社試験じみた評論課題には絶句した。評論家よりも編集者の方が足りていないのだろうかと勘繰りたくなるが、残念ながら・・・・・そういうことではない。こうした発想が平然と受け入れられているそれ自体が「歌壇内」の実情なのである。
 「短歌研究」十一月号の時評で吉岡太朗は、「読者の脳裏に(…)『歌壇』のようなものを、空間的にイメージさせ」た上で「役割」を問いかける姿勢には、「『それが役割として機能する全体がある』という前提が隠れている」と指摘する。換言すれば、「役割」を求める姿勢そのものが、共同体内部における認識の共有を図った、内向きのアジテーションへと繋がっているのである。論じる側の「共同体全体の運営者のような目線」や、「歌人たるもの歌壇の運営者の一員であるべきだ、という思考」が、結局は「内と外」の相違や懸隔をより堅固なものにしているのだ。
 勿論、評論賞の選考座談会で三枝昂之が指摘するように、「作者=読者」であることによるプラスの面も存在する。例えば、永田和宏の近著『私の前衛短歌』は、同時代的に前衛短歌を体験した作者による優れた批評の蓄積であり、永田自身の短歌観の変遷を追った時系列的ドキュメントでもあった。要は、「作者=読者=評論家」が三位一体となって成し遂げた成果なのだ。短歌評論が今後、「内と外」の懸隔を超えて信頼に足るものであろうとするならば、まず必要なのは書き手自身の「読者」としての立ち位置の表明であろう。
 翻って、雲嶋は「作者=読者」以上に、「作者=読者=評論家」という歌人三位一・・・・・体説・・をこそ、突き詰めて考察するべきだったのではないか。「純粋読者」は単に消費者であるだけでなく、作家の内的存在でもあるはずだ。

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