短歌時評

現代短歌という場所に露呈するもの / 花山 周子

2017年12月号

 昨年末の時評「現代短歌の両義性とは一体なんなのか」の続きを書けないままに一年が過ぎてしまった。これは、まだ書くつもりでいる。その他にも、時評で取り上げたいと思いながら取り上げずに過ぎたものはたくさんある。歌集にしても、総合誌の特集などにしても、それに同人誌。次々に発表される多くの新作。文章。評伝、評論等の書籍、迢空の全歌集なども出た。短歌外の文芸総合誌等で組まれた短歌特集。時評に書くことがなくて困るなんてことはこの二年間少しもなくて、寧ろ、ありすぎて苦しかった。そのなかで、時評に何を取り上げるか、を絞り込むとき、
  今、時代が大きく移りつつある。短歌とは何か、その成立の仕方を、実体的に考
 察し追求することが今の時代の様々に抵抗する可能性を開くような予感がなんとな
 くしている。
          「アンソロジーの時代に思うこと」『塔』二〇一六年九月号

 私はこの一点にかけていた。この文章は書いた自分にしてもわかりにくいと思う。そして、私はこの予感をドリルで掘るようなことをずっとやっていたと思う。その過程は明らかに偏ったところや間違った部分もあったし、何より、自分の拘り方が、窮屈で、頭が硬くて、いやだった。ただ、この予感だけは絶対に私の視野から逃げないようにしていたのだ。なぜか。というあたりをここでは少し整理して書ければと思う。
 内藤明が「うた新聞」二〇一六年十二月号で「多様化の後に」という文章を書いている。
  口語などをめぐる文体の問題、私性や虚構の問題、災害や社会の問題、短歌にま
 といつく諸観念の払拭の問題。数え上げれば切りがない。/しかし、個々の問題は
 それとして、和歌を始原としながら近代に作られ、それを受けつつ変容してきた
 「現代短歌」なるものが、一つの終焉を迎えつつあるのではないか、といった感想
 を持つ。/というより、一本の線、流れとしての進歩を見る短歌史が、すでに描け
 なくなってきているように思われる。

 個々の問題はそれとして、と内藤は、とてもフラットに、一番大事なことを言う。「現代短歌」なるものが、一つの終焉を迎えつつあるのではないか、と。本当は、個々の問題を議論しているときにも、この予感を孕みはじめているがために、昨今の言論が過熱したところがあったのではないか。短歌における「人間」の問題などはその顕著な例にも思われる。そして、そういう喧騒から一歩退いた場所で内藤明が書いていることを、大切に思う。
 様々なところで、いま、限界がきている。あるいは、飽和状態になっている。そんな気がしている。「塔」六月号の座談会「今ここにある歌を読むこと―短歌の時評・批評を考える」(黒瀬珂瀾、なみの亜子、花山周子、阿波野巧也、大森静佳)も、このような意識を共有したところで時評や批評というものを考える場になっていたと思う。堂園昌彦はこの座談会に触れて、「ここで言われているのは、時評のある種のフォーマットの中にある限界性ということだ」と指摘し、次のように書いている。
  この座談会に通底している問題意識は、短歌の世界において、答えを求められる
 ことの性急さと、その答えの中身や求め方がどうしても従来通りの型に則ってしま
 うという窮屈さだ。しかし、価値観が大きく移り変ろうとしている現在、短歌の世
 界の欲望は、ますます時評を求めているように思える。(略)
  喋らなければ複雑な現在を理解することができないのに、喋った瞬間に必ず間違
 ってしまう、そうしたジレンマに時評担当者は引き裂かれているし、もっと言え
 ば、あらゆる歌人が陥っている問題だ。この座談会でも触れられている花山の「現
 代短歌の両義性とは一体なんなのか」(『塔』二〇一六年十二月号)で語られたよ
 うな、政治的な内容や職場詠を選択的に詠わない若手歌人の「潔癖さ」は、こうし
 たジレンマの中からの実作上での反応だと思う。
         「時評っていったい何だろう」『現代短歌』二〇一七年九月号
 
 堂園は、現在が「価値観が大きく移り変ろうとしている」という認識に立ち、そのような現在において「短歌の世界の欲望」が時評を求めていると言う。ふつうであれば、個々人の倫理観や良識、それゆえの焦燥として考えられるところを、「短歌の世界の欲望」と捉えているのだ。彼はさらに批評の側の問題から実作上の問題へと考察を繫げる。実作と批評は不可分ではあるが、それは必ずしも表裏一体、というような単純な関係ではない。同じ要因がそれぞれに作用している、ということがあるのであり、堂園はそこを「実作上での反応」という言い方で慎重に捉えてきている。
 また、この堂園の文章とはちょうど反転したかたちで、現在の実作と批評の傾向について大森静佳が非常に興味深い考察を行っている。大森は香川ヒサが言う「短歌の両義性」(「和歌的なものの回復」『鱧と水仙』第四十七号)を、「古典和歌からの様式を保ったまま近代短歌へと革新されてしまったために、短歌が宿命的に背負ってしまった」ものだと要約し、さらに香川が「若手歌人の間に古典和歌的なものの回復を見出している」ことに触れて、次のように書く。
  若手をとりまく環境にしても、最近は近代の結社システムよりも、結社や地域の
 枠を超えて、もっと自在な「座」の文芸としての雰囲気が漂っている。(略)『桜
 前線開架宣言』(左右社)などのアンソロジーが大きな反響を呼んでいるのも、ど
 こか和歌的な世界と通じるものがあるように思う。/さらに象徴的なのは、一首評
 という批評のかたちが若い世代の間で流行していることだ。(略)歌人論や短歌史
 論は「人生日記」的な短歌のあり方に根ざすものだと言っていいが、では一首評は
 どうなのか。(略)言葉によって一瞬の生を実感する、という和歌的なあり方と響
 くものがあるのか、ないのか。
         「宿命のこと、最近のこと」『現代短歌』二〇一六年十一月号
 
 実はこのあたりのことを、「現代短歌の両義性とは一体なんなのか」の続きで書くつもりでいるので、今は紹介にとどめる。もう一つ、実作上における現代短歌のジレンマ、という点で、「短歌研究」四月号の作品季評が印象的だった。メンバーは穂村弘、大森静佳、寺井龍哉今野寿美の連作「花火師」についての部分である。
• 見にゆきて見たる螢をさきはひとするでもなくてこの夏すぎぬ
•〈隼(はやぶさ)〉と〈鐘馗(しようき)〉と〈疾風(はやて)〉命名のきもちはわかる航空遺産
• 芋蔓(いもづる)と芋茎(いもがら)まちがふ解釈の戦後生まれであるがかなしさ

 一首目に対し、大森が「『見にゆきて見たる螢』という言い方もすごく奥行きがあっていいな。(略)私、このぐらい余白があったほうが好きで」と評価し、二、三首目については、「下句で全部言っているような歌い方はキャッチコピー的で、そのへんはあまり乗れないところもありました」とやや難色を示している。こうした意見を受けて、穂村弘が次のような議論を展開するのだ。
  穂村 …短歌が要請する、要求してくる感受性の落としどころが絶対あって、歌
 歴が長くなるほど、それに馴染むにしろ、反発するにしろ、勘どころを全員がつか
 んでしまう、歌壇はその共同体というところがあるから。さっきの「螢」の歌も、
 (略)ここは「さきはひとする」とはならない、今野さんぐらいの名手になった
 ら。そして、偶然見た螢ともたぶん書かない。つまり、偶然見た螢を「さきはひと
 する」というのが一番初心者で、そこから適正な距離をとれるから短歌の世界の人
 なんだという。(略)歌壇は精度高く考え続けた共同体だから、結果的に、うまく
 なればなるほど落としどころはけっこう似てくる。
  寺井 それに対して不満なわけですか。
  穂村 今はね。そうなっていくプロセスの必然性はもちろんわかるけど。でもそ
 れって、短歌が要請してきたものに従った結果のように思えてしまう。…

 穂村が指摘するこうした短歌実作上の現象は、時評の座談会で上がった、〝近代から作り上げられてきた批評のフォーマットから出られなくなっている〟という実感とも重なってくるし、堂園が指摘した、「短歌の世界の欲望」の話とも通じるところがある。これまで積み上げ作り上げられてきた場が――それは、短歌に携わる者たちが、暗中模索の中で各々の主体性によって創出してきた場であったはずなのに――あるときから、場のほうがイニシアチブを握る。個々の作家がそこから出ようと足掻いても、出られないような極相状態に現代短歌は達しているのではないか。続いて穂村は、
  それではだめなんじゃないかとたぶん作者が思ってるから、もっとごつごつした
 ものにわざわざ自分の言葉をぶつけに行って、それでさっきみたいに大森さんに批
 判されたりするわけですよね。これだと下句で全部言っちゃってるじゃないです
 か、みたいに。でももちろん言わないでやるやり方は今野さん、我々より巧いわけ
 で、それをこういうふうになっても現実に接触しに行くみたいな意識はすごくこの
 連作にはあるのかなと思う。

 穂村は大森が難色を示した、二、三首目のほうに寧ろ歌人の主体性を汲みとっているのだ。もともと和歌への造詣も深く、言葉への美意識の非常に強い今野が、こうした散文的にベタな歌をつくることには、穂村が言うような作歌的意識をどうしても感じてしまう。そして、だからこそまた現代短歌が直面している葛藤やジレンマがそれだけ深刻であるという証左にもなっているのではないか。
 短歌が培ってきた場の問題について、ここのところかなり率直な意見を書いているのは吉岡太朗だ。「短歌研究」十月号の時評「沈黙の訓練」では、短歌を読むことは、短歌のなかの情報を図と地に編集するような行為であり、そのようにして解析することで、歌をわかろうとする、あるいは、わかってしまうときに寧ろ歌の味わいが味気なくなってしまうことを、「パクチーチョコの味」を例にして丁寧に説明している。そして、次のように書くのである。
  短歌をただじっと見つめること。主体的に読もうとすることを放棄し、「読めな
 いかも知れない」という不安の中に、裸で身を投じること。短歌が私のまなざしに
 触れた時におのずと立ちあがってくるものを、ただそのまま味わうこと。味わった
 ことを、解釈しようとしないこと。言葉にもしないこと。
  歌会に行けば嬉々として評をし、歌集を読めば作者への感想を用意してしまう私
 たちには、そのように沈黙するための訓練が圧倒的に足りていないのではないか。

 普段、短歌に携わっていると、しゃべることばかりが訓練される。しかし、吉岡は言う。「沈黙するための訓練が圧倒的に足りていない」と。本当にその通りだと身につまされる。そして、これもまた、共同体(場)の要請に従った結果とも言えるのではないか。続く、十一月号時評「SFじみた思考」では、今年の現代短歌評論賞の課題が「短歌総合誌のあたらしい役割」であったことに触れ、短歌総合誌の古くからの役割の一つは、「いわゆる『歌壇』という風に呼ばれるような短歌の共同体があたかも存在するかのように思わせる、あるいはその思いを維持する」、「『歌壇』のようなものを、空間的にイメージさせる」ことであり、こうした役割が内包する「歌人たるもの歌壇の運営者の一員であるべきだ」という要請を読み取る。そして、荻原裕幸が指摘する、「座の文芸あるいは場の文芸と呼ばれる短歌では、作品からダイレクトに見えて来る表現傾向の問題のみならず、その作品を生み出す歌人たちの置かれた状況や環境を、歌人自身が考え論じることが、作品にも大きな影響を与える。」(「同人誌の時代」『短歌研究』七月号)を受けて、次のように言うのである。
  このような思考は私には理解できないものである。なぜそのような把握が創作に
 よい影響を与えるのだろうか。運営者目線というのは一つの特殊な物の見方であっ
 て、誰もがその目線を共有すべきというのは違うのではないか。少なくとも私は短
 歌を運営するために短歌を始めたつもりはない。

 これら、十、十一月号の吉岡の時評は明らかに連続した思考のもとに書かれたものであろう。
 近代以降培われて来た短歌の土壌は、古い因習のように、作品と作者を束縛し、足枷になりつつある。もちろん、これまでにも、こうしたことは繰り返し指摘されてきたのだけれど、私はいま、様々な角度からの意見が重なりを見せているところに、より本質的なところで何かが露呈してきている気がしている。
 ここで、私が最初に述べていた予感の話に戻りたいのだが、私は、こうした現状は短歌に限ったことではないと思っているのだ。私は塔三月号で、斉藤斎藤の『人の道、死ぬと町』について、この歌集そのものが解体現場なのであり、その現場性こそが現代社会とオーバーラップする。と書いたのだったが、現在もまた、開国以来、あるいは戦後が築いてきた日本社会の解体現場なのではないか。道路にコンクリートを敷き、ビルを建て、川を舗装し、今、そうしたものは全て老朽化し、補修が必要となっている。資本主義も崩壊しつつあり、近代国家そのものも、民主主義も行き詰まりを見せている。全てがぎりぎりで維持されている状態だ。けれど、そのような時代の中にあって、思考することを投げさえしなければ、この先の最悪の結果を回避できるのではないか。短歌は一つの文芸にすぎないかもしれないけれど、私のなかでは、短歌とは何か、その成立の仕方を、実体的に考察し追求することが今の時代の様々に抵抗する可能性を開くような予感がどうしてもするのである。だからこの予感を追求することを手放せない。内藤明は先の文章をこう結んでいる。
   一本の線としての短歌史が描き難いということは、(略)正統も異端もないかわ
 りに、共有されるべきものの権威からも解放される。/こういった自由さを得るか
 わりに、今は個々人が、自ら価値とするものをいかにして見出し、作品や読みを深
 めていくのか、そして短歌とは何か、という重い課題を背負うことになった。
 (略)現代は自由と危うさが同居する時代だ。多様化が価値自体の喪失や、逆の統
 一化に向かってはならないだろう。自戒して一年を閉じたい。
           内藤明「多様化の後に」『うた新聞』二〇一六年十二月号
 
 人は、従う欲望がすり替わることを解放や自由だと感じがちだ。自分たちが生きてきたこの場所が解体は免れないとしても、精度高く培われた土壌とそこにある思考を最大限生かして、本当に気をつけて解体しなければと思うのだ。よりよき場所に行くために。

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