百葉箱

百葉箱2017年9月号 / 吉川 宏志

2017年9月号

  夕闇は路地いつぱいに来てをりぬ入れと我を呼ぶ声のする
                             金治幸子 
 夕闇の中に「入れ」と呼ぶのは誰なのか。美しさと不気味さのある歌だ。「路地いつぱい」がいい。
 
  折りたたみ傘のふくろが落ちておりたしかに雨に不要なるもの
                               歌川 功 
 下の句、当たり前のことをさらりと言っているところにユーモアがある。あの「ふくろ」の独特の存在感を、うまく捉えている。
 
  雨が似合う自分じゃ無いが雨もいい 広小路(ひろこうじ)にも箪笥町にも
                                  中山大三 
 これも下の句の意外性が生きている歌。二つ並べた地名に、懐かしい味わいがあり、そこを歩く不器用な男の姿が見えてくる。
 
  ざりざりと砥石と包丁の擦(す)れる音 研ぎゆくうちに濁音が止む
                                清原はるか 
 包丁が研がれてきて、「ざりざり」が、スーッという音に変わる。その間合いをうまく描いている。「濁音が止む」に、はっとさせられる。
 
  白い月見ながら歩く散歩道職がないから見えている月
                           西之原正明 
 つらい暮らしを、どこか飄然と歌ってきた作者だが、この歌は特に独自性を発揮していると思う。他の人には見えないものを見ている自負が、散歩の歩みを支えている。
 
  王はみぎ妃はひだりに置かれゐし棺おもひぬ天井見つつ
                            岡部かずみ 
 エジプトの墓などのイメージだろう。眠りに入りつつ、生と死の溶け合うような幻影を見ている。「みぎ」「ひだり」が不思議にリアルである。
  
  感情を終われない児にオレンジの「おわりカード」を提示しており
                                 八木佐織 
 感情をコントロールできない子と向き合う日常を、淡々と歌っているが、「感情を終われない」という表現に、深い吐息が籠もっているようである。オレンジの色が印象に残る。

ページトップへ