青蟬通信

〈間〉を見つける読み / 吉川 宏志

2017年9月号

  どこからか吹き寄せられて来し花の柿の花ちひさな箱型をして
 
 大辻隆弘の新しい歌集『景徳鎮』に、こんな歌がある。「花」が二回使われていて、一見、重複しているように感じるが、そうではない。
 「どこからか吹き寄せられて来し花の」で、一回切れる。ここにほんの少しだけ、〈間(ま)〉があるのである。そして、「柿の花」の後にも、ふたたび〈間〉が存在している。
 すると、どうなるだろうか。
 初めのうちは、何の花か分からなかったのである。だが、よく見ると柿の花だと分かった。そして、もっとじっくり見ると箱のような形をしていることに気づいたのだ――たしかに柿の花は、四角い特徴的な形をしている。
 つまり、視覚的な認識がはっきりとしていくわずかな時間を、リズムによって表現しているわけである。
 しかしこのリズムは、読者の側で切れ目を発見しないとあらわれてこない。「来し花の/柿の花/ちひさき箱型をして」と〈間〉を取って読むことで、歌のおもしろさは生じてくるのである。そして、カ行音が軽快に響いてくる。
 短歌のリズムはこのように、読者がつくりだす面が強いように思われる。これは、楽譜を見て、楽器を演奏することにたとえられる。たとえばクラシックのピアノ曲では、同じ楽譜であっても、ピアニストによって、曲のイメージが大きく変わってくる。それは演奏する人の〈間〉の取り方や速さなどが違うからである。
 現在は、歌を黙読をすることがほとんどだけれども、口の中でつぶやくようにでもいいから、声にしてみることが大切だと思う。歌会の重要さはいろいろあるが、声にして歌を読む機会になる、ということも挙げられるだろう。
 
  キセキレイ水辺にいたり微動する鏡となりてゆく秋の川
 
 三枝浩樹の最新歌集『時禱集』の中の一首。川を「微動する鏡」とたとえたところが美しい。キセキレイという鳥の黄色と、色彩的にも響き合っている。
 さて、この歌の結句はどのように読むのだろう。普通に読むと、〈鏡となってゆく〉というふうに続けるのが自然かもしれない。
 だが、「行く秋」という言葉もあるのである。「過ぎていく秋」という意味で、辞書にも載っている。
 だから、「鏡となりて/行く秋の川」というふうに、切って読むこともできないだろうか。そういうふうに読むと、鋭く張りつめた印象になる。ちょっと無理だと感じる人はいるかもしれないけれど、別のリズムで読めることも、この歌の一つのおもしろさだと私は思っている。
 栗木京子歌集『南の窓から』が刊行された。
 
  同じ地図もちて沢へと下りゆきし日のあり友の逝きてまた秋
 
 「同じ地図もちて」という描写が良くて、山歩きの様子が目に浮かんでくる一首である。この歌も、「日のあり/友の・逝きて/また秋」と〈間〉を置いて読むことで、静かな哀感が響いてくる。友を亡くした悲しみを強く歌っているわけではないのだが、こまかく刻まれたリズムによって、作者の寂しさは確かに伝わってくる。こうした歌は、目だけで読んでいると良さに気づかない。口ずさむように読むことで、感情の起伏が浮かび上がってくる。
 さて、この歌の三句は「おりゆきし」と読むのだろうか。それとも「くだりゆきし」と読むのだろうか。自然に読むのなら「おりゆきし」だが、岩を伝いながらゆっくりと下りたのだとすると、字余りで「くだりゆきし」と読んでもいいと思う。字余りだと、もたもたとした様子があらわれるのである。どちらの読み方を選ぶかは、読者の自由に任されている。
 短歌は、読者が音声化することによって、生命が吹きこまれるものなのである。そしてそこには、いろいろな読み方ができる自由な幅のようなものがある。

ページトップへ