短歌時評

内山晶太の鑑賞について / 花山 周子

2017年8月号

 六月号で、仲田有里の『マヨネーズ』の歌に対する内山晶太の文章を紹介した。
・玄関のタイルに沿って掃いていく窓のガラスの外に電線       仲田有里
 こうした仲田の歌に対し、内山は、「モノが背負わされた『意味』を仲田の歌はあらかじめ解消している」と指摘した上で、
 モノにまとわりついてくる「意味」を丁寧に拒むことは、そう持続できるものでは
 ない。                        「現代短歌」六月号

と、言う。さらっと「意味」を解消することの難しさに言及するのである。一般的には短歌を作る場合、対象にまず意味を発見し歌に内在させ、それによって普遍的な広がりや奥行きを持たせる。そのことにこそエネルギーが費やされる。それは決して容易いことだとは思われていない。けれども内山は、「意味」を解消することが難しいと言う。
 また、私が五月号でも紹介した山下翔の連作「温泉」中の次の一首について、
・ゆふかげにこころは動き波までは見えずにとほく見る橘湾       山下 翔
 もしこの歌が本当に現代のオーソドックスな短歌だったら、「波までは見えずに」
 の「発見」が一首を生かしつつ、その「発見臭」が一首を殺していただろう。が、
 この歌の上から下まで切れることなくつづくおおらかな言葉の連鎖が、「発見」
 にやすりをかけ元の「風景」へと返すことに成功している。
                            「現代短歌」一月号

と書く。非常にすぐれた鑑賞だと思う。作者の発見が一首の眼目になる場合、歌が合目的化される。それは意味的広がりを獲得することでもある。一方で対象自体は作者に加工、限定されたものとなり、それを読者が受け取るというように、ベクトルが単一化する。
 だが、この歌にそのような矮小化は確かにない。「『発見』にやすりをかけ元の『風景』へと返す」。つまり往還が生じるのである。
 こうした内山の鑑賞は、短歌の本質論にも届く非常に鋭いものであると思うのだが、けれども、内山は歌論的主張として展開するようなことはない。あくまでその対象作品からこうした鑑賞を引き出しているという点は重要だ。実際、対象が異なれば、内山の鑑賞も違うものになる。だから、これらの鑑賞をこちらが勝手に、他の作品や内山自身の作品に敷衍することには注意深くありたい。ただ、私が短歌というものを考える足掛かりとして気づかされることが多いのは事実なのだ。
 今、連載されている砂子屋書房HPの「月のコラム」での鑑賞もいろいろ面白い。第一回の「執着と怒りと足場―染野太朗歌集『人魚』について―」では、たとえば、
・吉祥寺ヨドバシカメラ四階でそっと扇風機を持ち上げた       染野太朗
 この歌の「扇風機」にディティールがないことによって寧ろ「扇風機」以外のなにものでもなくなっていることを指摘した上で、
 モノを言葉のディティールによって削るとき、そのモノは観念へと移行し現実から
 乖離する。

と、当然のように書く。のだが、従来であれば「扇風機」なり「窓」なりをそれのみで提示する方が、そのモノは言葉として象徴性や観念性を帯びたのであり、ディティール描写することは「扇風機」を具体に還元する手段であったはずだ。
 だが、内山は寧ろディティールによってモノが削られ、観念に移行するという。ここには、ディティール描写が発見のレトリックとして成熟した現代短歌の地点におけるある種のパラドックスがあるのであり、内山は一周回ったところで回復された「扇風機」の姿を染野の歌に見ているのではないか。

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