青蟬通信

/ 吉川 宏志

2017年7月号

 内田樹氏の講演集『日本の覚醒のために』(晶文社)が出た。伊丹十三、白川静、宗教、憲法など、話題は多種多様だが、どれもおもしろい。私は、伊丹十三についてあまり関心がなかったのだけれど(映画『お葬式』の印象が最も強い)、知っておくべき人物だったのだなと強く感じた。
 内田氏の「読む」ことに関する論に、私は非常に大きな影響を受けた。この本でも、それは分かりやすく語られている。内田氏はレヴィナス(フランスの哲学者)の研究者であり、次のように回想している。
「大学院生のときにレヴィナスを初めて読んだときは、ほんとうにまったく意味がわかりませんでした。みごとに一行も意味がわからなかった。でも、そこには非常に重要なことが書いてある、自分があらゆる手立てを尽くして理解しなければならないことが書いてあることはわかりました。不思議な話です。」
「だから、この人の本が読めるようになるためには、自分自身が知性的、感性的に成熟するしかないと思った。」
 そこで内田氏はレヴィナスの著作を日本語に翻訳することを始める。しかし理解できないフランス語の文章を訳しても、理解できない日本語の文章になるだけだった。だが、それでも「写経」のように翻訳を続けたという。すると、レヴィナスの文体の癖がなんとなくわかってきて、次にどのような言葉が来るのかが予想できるようになった。
「不思議なもので、忍耐強くそのような作業をしていくうちに、しだいにテクストと呼吸が合ってくる・・・・・・・・・・・・・ようになる。」
 テクスト(文章)と呼吸が合う、という感覚に、私もとても共感する。私の歌集『西行の肺』(二〇〇九年)に、
  読みながら息はしずかに合いてゆく西行の肺大きかりけむ
という歌があるが、その不思議な一体感を詠もうとしたのだった。
 私も、西行の歌を読まねばならない、という奇妙な切迫感に襲われたことがあった。なぜだかわからないが、今読んでおかねばならない、と本能的に感じたのだった。内田氏は、読者がテクストから呼ばれる、ということを書いているが、それにも同感するのである。
  もろともにわれをも具(ぐ)して散りね花憂(う)き世をいとふ心ある身ぞ
                                 『山家集』
 西行にこんな歌がある。「桜の花よ、私も連れて散ってください。私もこの世をつらく思う心を持っている身ですから」というような意味。
 私は「散りね花」という言葉の勢いに心を惹かれるのである。声に出して読めば分かるが、「散ってくれ、花」という鋭い語調が、なまなましく伝わってくる。まさに肺腑から出てきたような声が響いてくる。
 短歌は、五・七・五・七・七に言葉を切りながら読んでいく。歌のリズムに、自分の波長を合わせるのである。それは、テクストと読者のあいだで、呼吸を合わせるのとまったく同じことなのであろう。歌と読者が、身体的に合一化することによって、書かれている言葉以上のものが伝わってくる。西行の歌でいえば、散る花を見ながら、自分もこの世から消えてしまいたいと思う心が、身に迫るように感じられる。それが真に歌を読むということなのではないか。ただ文字だけを読んでいるのとは、違う次元が存在するように思う。
  たれかまた花を尋ねて吉野山苔ふみわくる岩伝ふらん
 自分以外に誰が、わざわざ花を見るために、苔の生えた岩を越えたりするだろうか。そんな意味の歌だが、この歌を実感的に捉えるには、読者も桜を見るために岩を登ったりして、「いやいや西行さん、私もあなたと同じように山の桜を見ましたよ」と言わねばならない。西行も、自分以外に誰が、と言いつつも、自分と同じように桜を愛する人が存在することを信じていたはずだからである。心の中で、そんな会話を西行と交わすことで、この一首はリアルな存在感を持ちはじめる。
 内田氏はこの本の中で「死者たちの世界との回路」ということも述べているが、古歌を読むのは、確かに死者との会話であると感じる。

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