八角堂便り

捨てがたきふしある / 江戸 雪

2015年7月号

 五月一二日の深夜、この原稿を書き始めた。もうすぐ日付が変わる。季節はずれの台風6号の影響で大阪市内は雨が降っている。 
 そういえば日本最古の評論集(エッセイ集?)『無名草子』の書きだしも五月だ。旧暦なので季節は少し違うが、次のようにある。
 「五月十日余日のほど、日頃降りつる五月雨の晴れ間待ち出で、夕日きはやかにさ
 し出で給ふもめづらしきに…」
 八十歳を過ぎた老尼が京都の東山あたりを出発し、歩いていくと檜皮屋を見つけ、そこに居た女房たちと話し始める。まだ女性の書くものの価値が認められなかった時代に、女性の目線で語られる様々なものの見方、意見が面白い。女房たちは、とりとめもないことを語り合う。
 「さてもさても、何事か、この世にとりて第一に捨てがたきふしある。おのおの、
 心におぼされむこと宣へ」
と、この世で一番大切にしたいものは何かを言い合う。一人目は「月」。伝統の雪・月・花のうちの月は妥当なところ。次に別の人があげるのは「手紙」である。生死や時間にかかわらず相手を感じとることができる手紙の風情を語る。思いや出来事を文字に残すことのすばらしさ、永遠性を『無名草子』の文章から私たちはあらためて知らされる。
  声しぼる蟬は背後に翳りつつ鎮石(しづし)のごとく手紙もちゆく
                            山中智恵子『紡錘』
  白き封書投ずるそのきは瞑目をならひとなせり薄ら陽のひかりよ
                           葛原妙子『飛行(ひぎやう)
 語り合う女房たち、あるいは平安朝の女流歌人の生まれ変わりだと私が秘かにおもっている二人の歌。ともに手紙の不思議な力のようなものを題材としている。 
 山中智恵子は手紙を「鎮石」のように運ぶという。手紙は精神を鎮めてくれるものと読めばいいだろうか。投函するためか受け取ったあとかに手紙を持って歩く。その背後に、絞り出すような声で鳴く蟬がひやりと居る場面づくりも秀逸だ。そして葛原妙子は投函するときに「薄ら陽」のなかでいつも瞑目を感じると詠う。どちらも手紙の磁力に吸い寄せられている作品だ。
  蝶々を素手で摑んでいるようなきみの手紙の長き追伸
                         山崎聡子『手のひらの花火』
  湿らせた青い切手よわたくしの体温うすく保って届け
 現代を生きる若い作者も手紙を詠う。一首目。長い追伸はまるでそれが手紙を書いた主な動機であるかのようにひりひりと作者の心に届く。二首目は自分が書いた手紙で、切手はおそらく舌で湿らせたのだろうと下の句から想像できる。どちらの歌にもどこか高揚感がある。
 さてと。紫陽花の便箋を買いに行こう。

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