八角堂便り

新かな旧かな(6) / 花山多佳子

2012年9月号

八角堂便り  第四十五便

新かな旧かな(6) 
花山多佳子 

 永田和宏著『歌に私は泣くだらう』が届いたばかりだが、このタイトルの「だらう」を
つくづく眺めてしまった。現在散文の本のタイトルが旧かな、というのは珍しいというか、
皆無に近いのではないか。短歌の引用とわかっている私たちはともかく、一般の人が
ぱっと見て、あれ、これは何だらう、と異様の感をおぼえるかもしれない。
 短歌をやっていても、文語イコール旧かな、口語イコール新かな、だと漠然と思って
いる人も多いので、その誤解もふっとぶだろう。

 ところで「だろう」を広辞苑で引くと、「(指定の助動詞ダの未然形ダロに推量の
助動詞ウの付いたもの)体言、用言の終止形、助詞「の」をうけて推量を表す。」と
出る。
 何のことだか、ちんぷんかんぷん。私はずっと「であらむ」が「だらむ」「だらう」
と変化してきたと思っていたのだが。「未然形ダロ」というのが、よくわからない。
この説明だと「だらう」になるべき根拠が示されてないやうな。

 よく「だろ」と会話で言うが、「だら」と言うのは、どこの方言だったかしら。
「そうだら」とか、面白く聞いていたがこのほうが古語だったのだ、といまさら
思い当る。

 「僕は旧かなっていうのは意外と口語、しかも話し言葉に相性がいいと思って
いるんですよ」というのは、前回にも書いた詩歌文学館の仮名遣いのシンポジウム
での永田氏の発言。案外にマッチする、という感覚は、どのくらいの人が共有する
のだろう。

 というのは、かつて口語で旧かなを遣うときに、抵抗がある表記の代表として
よくあげられるのが「だらう」だったような記憶があるからだ。目立ちすぎて、
さりげなくないと。当時は私もその感覚があって「だらう」は背筋がむず痒い
ような気がした。旧かなを遣うようになってからは、そういう抵抗感もなくなり
つつある。

 戦前は目立ちすぎも何もなく、会話でも何でも旧かなで書き、読んでいたわけ
だから、マッチすると思うのも、違和感を持つのも、旧かなに慣れていない世代の
意識なのであろう。
 蒸し返すようだが、逆に戦後、新かなにしたときの感覚、特に文語の歌を新かな
で書く感覚はどうだったのか。案外マッチする、と思ったり、抵抗感の刺激を味わ
ったりしていたのかどうか。新かなの是非というような本質論はさておき、表記を
変えるということは単に我慢したり理念に殉ずるだけではなかっただろう。

 前に高安国世の当時の歌を上げた。岡井隆のはじめての新かなの歌集『斉唱』から
上げてみる。

  ただ一度となりたる会いも父のへに小さくなりて答えいしのみ

  抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う

 「会い」「答えいし」「のこりいて」「言う」あたりを書くときの抵抗感を、案外
に愉しんでいたのかもしれない。

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