八角堂便り

叔父高橋房男にかかわる皇后の歌一首 / 黒住 嘉輝

2013年3月号

八角堂便り   第五十一便

叔父高橋房男にかかわる皇后の歌一首
黒住 嘉輝 

    早蕨
  ラーゲルに帰国のしらせ待つ春の早蕨(さわらび)は羊歯(しだ)に
  なりて過ぎしと
     長き抑留生活にふれし歌集を読みて
 

 昭和六一年二月に刊行された―皇太子同妃殿下御歌集―『ともしび』の中に
この一首がある。当時はまだ皇太子妃なので厳密に言えば、皇后の歌と書く
のは正しくないのかも知れないのだが…。

 実はこの詞書にある「歌集」というのが叔父高橋房男(明治四二年―平成
十二年)の『転生―ラーゲルの中で―』のことなのである。

 私の母の妹雅子と結婚した叔父は、上海東亜同文書院四年を卒業、日清製油
株式会社に勤務していた。昭和十一年「アカシヤ誌」創刊と同時に叔母と共に
参加。叔母高橋雅子は、平成十五年に亡くなるまで、塔の会員であった。

 敗戦後、叔父はシベリアに抑留され、郷里宇都宮へ帰還するのは三年後の
ことである。その間の厳しく苦しい日々の経験を短歌にしていたのであった。
但し、書いたものを持ち出して帰国することは禁止されていた。自作の歌とは
言え、何百首も暗記することは不可能であろう。叔父は小さな紙片に、細かな
字で書き記し、見つからないようにベルトの皮の間、靴の底などに隠して、
こっそり持ち帰ったという。

 昭和二三年五月ソ連より帰還した叔父は、十一月栃木県立高校教員となり、
宇都宮商業高校、宇都宮女子高校、小山高校などに勤務し、この間短歌誌
「やまなみ」や再刊された「あかしや誌」の同人、さらには、昭和五一年から
は「下野歌人会」に参加している。そして、昭和五二年九月、捕虜歌集『転生
―ラーゲルの中で―』刊行と年譜にある。
 この歌集が、これも叔父にあたる札幌の田代友秀、その友人であった札幌市長
の手を経て、東宮侍従長を介し美智子妃に届けられたのだと聞いている。そして
冒頭の一首になったのである。

 皇后と言えば、河野裕子の最晩年、その病状を案じ、お見舞のスープと、いた
わりの言葉を寄せられたことが、平成二二年八月号の塔に載っているので、記憶
する人も多いであろう。

    
    皇后さまよりお見舞のスープと御伝言届く
  
  『葦舟』と『母系』に触るる箇所もあり御伝言聞きつつスープを啜る

  ふた匙なりともの御言葉の通りやっとふた匙を啜り終へたり
 
 そして、また、平成二三年十月十七日行なわれた、「偲ぶ会」にも、皇后より
の歌一首が寄せられているので、それを記してこの稿を終えることにしたい。

 
    亡き人
  いち人(にん)の大き不在か俳壇に歌壇に河野裕子しのぶ歌

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