短歌時評

「大衆性」について / 大森 静佳

2014年5月号

 佐村河内守氏の代作問題を受けて、角川「短歌」四月号で緊急特別企画「感動は
どこにあるのか―作品と作者と〈物語〉」が組まれている。五つの論考は短歌の現在
を考える上で示唆に富み、作品と〈物語〉の関係もいずれ前衛短歌史と絡めて書きた
いテーマだが、今回は大衆性と芸術性の問題に絞って考えてみる。
 大辻隆弘「大衆性の誘惑」は、かつては「読み」の共同体(結社)が短歌史の蓄積を
受けて短歌の芸術的価値を支えていたが、一九八〇年代以降のネット短歌の隆盛に
よりそれが脅かされているとして、次のように続ける。

  いきおい、彼らの歌の表現は、短歌表現の機微を理解しなくても読める平易な
  ものになっていく。(中略)平易な口語をベースとし、「大衆性」を持った作
  品のみがもてはやされ「商品」として流通する。

 大辻の危惧はよく伝わる。でも、大衆性と芸術性は今、それほどはっきり乖離してい
るのだろうか。企画の意図による部分もあるだろうが、他の論考も含め「大衆性」が必
要以上に貶められているような気がしなくもない。

  問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい     川北天華

「高校生文芸道場おかやま2009」作品集を初出とするこの歌は、数年前、twitterで引
用されるや桁外れな規模で拡散された。総合誌でこそ話題にならなかったが、twitter
では多くの歌人がこの事態に驚愕し、そして困惑した。

 この歌は、詩的な結晶度が高く、問の「十二」という選択や下句の見せ消ちなど修
辞的にも凝っている。twitterの世界で圧倒的に支持されたという点で〈大衆性〉を
代表する歌と言えるが、表現は決して平易ではない。では、なぜこの歌がそれほどま
でに大衆の心を掴んだのか。それは、定型を駆使した数学問題文のパロディが、教科
書に載っているもの以外にあまり短歌を読んだ経験のない人々にとって非常に斬新
に映ったからであろう。

 つまり、今、大衆に支持されるのは、平易な歌ではなくむしろ流れ去らないインパク
トのある歌ではないだろうか。SNSが浸透した現代の日常では、すべての言葉がさら
さらと流れ、画面や〈眼〉から次々に消え去ってゆき、よほどの衝撃がないと眼に留ま
りさえしない。平易な表現や共感だけの歌は素通りされてしまうのである。

 昨年の角川「短歌年鑑」の座談会「秀歌とは何か」において、岡井隆と永井祐はとも
に、秀歌の条件の一つとして「見たことがない新しさ」を挙げていた。短歌を読み込ん
でいる集団もそうでない大衆も、どちらも斬新さを求めているようである。しかし私は、
短歌を語る上では、〈新しさ〉や〈斬新さ〉という語はかなり胡散臭いものだと考えて
いる。なぜなら新しさとは、各人がそれまでに読んできた短歌の知識量によって左右
されるものだからだ。ここに、歌人と大衆のあくまで地続きな坂が生まれる。例えば、
歌人の多くは、吉川宏志『青蝉』の〈ア 蜂が鯨を刺すから イ 僕は
人麻呂だから ウ 睡いから〉や斉藤斎藤『渡辺のわたし』の〈やなことがあっ
て季節の花が咲き 問1なにが咲いたでしょうか〉などの先例を知っているために、川
北の歌にさほど斬新さを感じなかったのだ。

 仮に、歴史上のすべての短歌を網羅したデータベースが出来たとして、そこに類似
部分を持たない歌が〈斬新〉な短歌であり、秀歌なのだろうか。それはあまりに虚しい
気がする。いい歌はそれを超えたところでいい歌であり、インパクト合戦はおそらく不
毛だ。新しさ/古さという曖昧で実体のない軸に振り回されず、また、芸術性と大衆
性を安易に切り離して開き直るのではなく、一首ごとの良さを冷静に読み込んでいき
たい。

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