八角堂便り

両国駅の千樫 / 真中 朋久

2013年8月号

 岡山巖『思想と感情』(一九三六年刊)は、わざわざ読もうと思わないタイトルだが、ぱらぱらと見ていたら「お茶の水両国間高架電車線」という一連があって立ち止まることになった。東京歌会に参加するときに秋葉原で乗り換えて浅草橋までゆくのだが、駅の雰囲気のレトロな感じが興味深いと思っていたのだ。
 
  乗りかへてお茶の水いづる高架線万世橋駅(まんせいばし)は疾(と)く下(した)にすぐ
  お茶の水出(で)て徐徐にたかまりゆく電車下谷浅草の空をとどろに
  高架線は秋葉原に来てたかだかと山手線(やまのてせん)の上をよぎりつ
 
 御茶ノ水―両国間の開通(一九三二年)直後の様子であろう。秋葉原は、今の感覚でいうと「たかだかと」でもないが、電車が電車の上を横切るというのは、当時としては、おどろくべきことだったのだ。一首目の「万世橋駅」は、最近まで交通博物館があった場所だという。
 
 この路線が開通する以前、そして以後も長いこと千葉方面への長距離列車の始発駅は両国であった。そう思って見ると、両国駅の建物には風格があり、ターミナル駅の面影を残している。
古泉千樫に、こんな作品がある。
 
  ふるさとに父をおくりて朝早み兩國橋をあゆみてかへる  『青牛集』
 
 まだ電車線開通以前の大正七年(一九一八年)だから当然だが、汽車の始発駅は両国である。上京してきた父親を見送るために、両国まで行った帰り。まだ早朝である。〈幾年を遠く住みつつ住みわびて今はた父に錢をもらひたる〉などがあって、都会で身を立てようとしつつ、いつまでも親の支援を受けていることの情けなさなど、身につまされるところだ。老親をいたわるために見送るというよりも、ここでは世話になっているということの感謝と礼儀のウェイトが大きいのではないか。
 
 すこし遡る大正四年のあたりからは、こういう作品を拾うことができる。
 
  兩國橋を渡りしが停車場の食堂に來て珈琲を飲む    『屋上の土』
 
 これはまるで石川啄木の〈ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場(ていしやば)の人ごみの中に/そを聴(き)きにゆく〉ではないか……と思うが、直後は〈汽車に乘り行かむと思ふ海のべのかなしき宿に今宵はいねむ〉であり、駅でただ望郷の念に浸っているわけではない。とはいえ、このときの行き先は「稲毛」のあたりまでであり、千樫の故郷はもっと先の安房郡吉尾村(現在は鴨川市)である。
 
 千樫にとっての両国と、啄木にとっての上野。故郷からの都会の玄関口として共通するところがあり、しかし実際の距離は大きく違う。故郷の人々や家族との関係も違う。二人の歌人の資質の違いとあわせて、駅で過す二人の作品を読み比べてみるのである。

ページトップへ