八角堂便り

年間回顧の若干の補足 / 永田 淳

2020年5月号

 川本千栄さんが、私が参加した去年の年間回顧座談会について、以下のやうにツイートされてゐた。【(前略)永田淳「(…)書いてるうちにあっち行ったりこっち行ったりする。そしてそのままほったらかしても、多分評論って成り立つと思うんですよ。」…うーん。それで成り立つのは、そう見えるように書いてるからでは?】。(https://twitter.com/chkwmt/status/1213452228184297472)。座談会ではこの話題について掘り下げなかつたので、ここで私なりの思ひを書いておきたい。
 例へばある歌人を読み込んでゐて、比喩に特徴的な傾向を見つけたとしよう。「これは新発見だ!」と思ひ、そのパターンに当てはまる例歌を集め始めると、自分が見つけたのとは違ふ比喩も出てくるものだ。その時に、自分の思ひ描いた結論にそぐはない歌を拾ふか捨てるかの違ひだと思ふ。自分がたてた推論に盲目的に突き進みたい評者なら、そんな歌は捨てるかもしれない。良心ある評者ならそこで立ち止まつて、書きなづむだらう。
 私は最近「とはこと構文」と言ふことを考へてゐる。例へばこんな歌である。「端座とはたとえばけやきの姿勢でしょう今朝はすっかり葉を落としてる」(坪内稔典『雲の寄る日』)「風化、とは みほとけの崩(く)えゆくさまを曝してふくしまの秋はみじかい」(齋藤芳生『花の渦』)「あなたとは遠くの場所を指す言葉ゆうぐれ赤い鳥居を渡る」(松村正直『駅へ』)。ここでの私の仮説はかうだ。初句で「~とは」と歌ひ出して、二句あるいは三句で「~のこと」と初句の命題を回収する。「~とは」と大上段に歌ひ起こすので、上の句が頭でつかちになる。その堅さを中和するために下の句はふはりと柔らかく着地させるやうに歌ふのではないか。
 まだ思ひついたばかりなので、多くのサンプルを探せてゐないし、一首全体がガチガチの理詰めの歌が出てくるかもしれない。また想定外の歌が見つかるかもしれない。そんな歌があれば、私の今の仮説は途端に破綻する。けれども私はそんな歌を見つけてきたい。リニアに結論に直結する歌だけではつまらない。思つてもみなかつた歌に多く出合ひながら悪戦苦闘して、結局は明確な結論が出なかつたといふ方が楽しいのではないか。「あっち行ったりこっち行ったり」して「ほったらか」すといふ座談会での私の発言の真意はここにあつた。
 クリアカットされた結論に鮮やかに導かれる評論を読むのは、確かに爽快ではある。しかし、そんな論だからこそ、抜け落ちてしまふ、あるいは意図的にネグレクトされる歌も実は多くあるだらう。私たちが評論を読むときに、本当に読みたいのは結論ではない、そこに至るまでのプロセス、評者の思考の理路であるはずだ。と、ここで結論じみたコトをいつてしまつてゐるのがなんと悔しい。

ページトップへ