短歌時評

運用と手順② / 吉田 恭大

2020年2月号

 令和二年版の角川『短歌年鑑』。柳宣宏・栗木京子・小島ゆかり・佐佐木定綱の四氏による座談会「国語教育と短歌――なぜ文学か」を興味深く読んだ。議論の端緒は二〇二二年度から実施される高校の学習指導要領について。報道では『高校で駐車場の契約書を学ぶ』などとかなりセンセーショナルに取り上げられていたが、実際はもっと問題が入り組んでいる。特に、新しい指導要領と実際の授業運営について詳しく言及していた柳氏の発言からは、教育現場の対応の大変さが伺われた。
 制度的な整備は難しいかもしれないが、座談会でも言及されていた短歌甲子園などの取り組み、歌人による学校へのアウトリーチなど、現場レベルの経験を積極的に共有し、地道に実績としていくことがやはり肝要かと思う。
 教育と芸術との連携について、演劇の領域でもこれまで様々な取り組みがなされてきた。「音楽」や「美術」と違い科目として教育課程に組み込まれなかった「演劇」を、例えば平田オリザは「コミュニケーション教育」という文脈で導入して成果を上げている。歌会や歌合など、短歌の座の文学としての特性をグループワークに活かす手法も、同様にメソッドとして活用することができるだろう。
 
 ここで話題をすり替える。アウトリーチ。最近はどの表現分野においてもとにかく目的――世間にとって何の役に立つか、が求められがちである。 そういう意味で「教育」は旗印として目立つし、最も理解が得やすい。
 景気が悪くなると、芸術関係の予算は真っ先に削られる。個人の財布でも国の支出でもそれは同様である。ここ数年はオリンピック誘致のための恩恵が文化政策の方面にもかなりあったが、それも所詮「日本が文化的に優れている国である」ことを国や都が対外的にアピールするための一時的な方便に過ぎなかった。
 文学も芸術も、とにかく世間に役に立たないと言われがちだ。役立たずを食わせるような余禄はもはやこの国にない。図書館司書はいずれAIに取って代わられるそうだ。
 これからの社会の中で文化を営んでいくためには、いかにそれらが有意義で役に立つか、社会や国家のために言葉を尽くさなければならない。『それが何の役に立つの?』は経済や市場ともすぐさま結びつく。金にならない/自分と関係ない文化には存在価値がないと思っている相手に対して、手を替え品を替えその意義を説明していく、不毛な行為。
 本当はそんなことをしなくてもよいのかもしれない。しかし、権力者が己のイデオロギーに合わない表現に圧力をかけることに何の疑問も持たない時代になってしまった。これから先、安全に『役に立たない』作品を作り続けるためには、意味内容ではなく、詩形としての作用や効能を少しづつ喧伝していくか、あるいは戦っていくしかないのではないか。
 (文化行政のための申請書類は枚数を重ねるほど文学からは遠ざかり、むしろそこで必要とされるのは文学よりも「論理国語」の能力だ。そう考えると若いうちから論理国語に親しむのも悪くなかったかもしれない。)
 
 昨年の令和ブーム、書店では万葉集がよく売れたが、果たしてそれはこの国の短歌創作者たちに何か「役に立った」のだろうか。日本の伝統だの何だのと無邪気に国歌や元号を引き合いに出して浮かれていると、皆あっという間に「より役に立つ」方へ動員されていくだろう。そしてその時の私たちは、おそらくとても嬉しそうな顔をしている。

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